2001年7月 サブ・クングス レーデン 山歩き記録

地図
写真大判 : ftp://maxus.irf.se/pub/perm/yama/photo/
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7月10日=第3日(曇り時々小雨、午後2時夕立ち、のと晴れ) 宿170kr
     起床 7:00   
      9:00 発  Tj"aktja(シェクシャ)小屋 
(+4km)10:25-10:40 1310m の峠 
(+3km)11:50-12:20 Nallo 小屋の少し上 
(+3km)13:25-13:50 宙吊り氷河の真下
(+5km)15:20-15:35 2km 手前の草原
(+2km)16:05 着 Vistas(ビスタス)小屋 
     就眠 22:00

 曇りだが雨は降っていない。しかも東の空…昨晩考え尽くした峠の方向…だけは雲が切れている。雨の降る前に峠を越すべし。その思った瞬間、今日の予定…17km先のビスタス小屋行き…が確定した。クングスレーデン本道に未練を残す2人を説得する口実は氷河コース。もちろん本音は違う。短期決戦型の私が1人ではとても行きそうにないコース、つまり未踏コースでかつ将来も行きそうに無いルート。なあに、今日を終えれば、連中だってこっちにして良かったと宣うに違いない。
 橋を渡って山小屋の対岸あたりで山小屋をバックに記念撮影する。昨日は疲れていた(特にSが)ので、そんな余裕は全然なかった。 シェクシャ小屋はクングスレーデン本道では最高の山小屋である。標高(1020m)も 残雪量も、そして恐らく 景色も。それを今頃になって噛みしめる。
 地図上の路は、昨日の路を少し下って、そのあと概ね川沿いに遡行すると記しているが、それでは迂回になるし、第一これから峠越えの登りなのに一旦下るなんて馬鹿はやってられない。とうの昔に潅木限界を超えたツルツルの太古地形を良い事に、ツンドラマットの上を真直ぐ東に向かう。30分ほどで正規ルートに合流するが、正規ルートと言っても路はなく、忘れた頃にケルンに出会うだけ。それでも安心できるからケルンは有り難い。
 昨日の難所シエルマ川を遡行して、上流で渡る。昨日に比べて全然楽だ。渡ると少し向こうに峠が見えている。そこまで頑張ってから休もうと、ちょろちょろした支流を遡り、水源の氷池をいくつか歩いて、最後の氷池の土手がそのまま峠になっている。もちろんここで休憩だ。昨日、一昨日に比べて断然狭い峠だけに、いかにも 山に入ったと実感する
 標高差300mの瓦礫路4kmを1時間半。上出来、上出来。残り13kmは全部下り。しかも行く手には青空が広がっている。いきなり気楽な気分が体を支配し始める。休養日とでも言うべきか。背後の 西空がますます厚い雲に覆われているにもかかわらずだ。気にならないと云えば嘘になるが、ラップランドでは天気は必ずしも西から東へ移動するとは限らず、東西南北全ての向きに動き得るし、停滞する事も多い。だから、徒歩ですら雲から抜け出る事が可能なのだ。そういう希望が、なんとなく実現されいるように思える。今朝、雲の切れている方向に向けて歩き出したのは大正解だった。
 狭い渓谷を行く手に向かって眺望すれば、 尖った山に挟まれた半分氷の湖が山と青空と雲を対称に深く沈んでいる。峠から見下ろす湖は世の東西を問わず目を釘付けにする。もちろん、突然の美しさに心を奪われるからだが、今回はそれだけでない。湖までの急な下り、然も大瓦礫と雪渓の斑を下らなければならないという現実が景色から浮かび上がって来るのだ。休養日行程といえども難所はある。
 だが今はひとときの休み。さあ。景色を楽しもうでは無いか。そう思って氷河を捜す。実は、この3日間、毎日全く異なるタイプの行程を選んでいるのであって、それは経験と言う意味では立派な合宿であり、景色と言う意味では立派な観光である。1日目が距離と徒渉の訓練で、同時にU字谷を雄大さを堪能して貰い、2日目が夕方の高速歩行の訓練で、同時に花を堪能して貰い、今日は山越え訓練で、同時に急峻な山に掛かる氷河を堪能する筈なのだ。だから今日は氷河の日。地図によればでは谷間に向かって左手の山陰が至近氷河だが、残念ながら 雪に覆われて氷の面が殆ど見えない。焦るに当らず。氷河はまだまだ沢山待っている。
 急坂に入る前に、雪融けの冷水を飲む。瓦礫の下を流れている奴だ。日本なら手ですくって冷たさを両手に受けて飲むところだろうが、スカンジナビアでは簡易柄杓を使う。コップでは無く柄杓。それに1杯2杯と汲んで飲むが、さすがに生物度ゼロの水だけあって喉にしみる。それにしても、簡易柄杓には随分お世話になっている。これは北欧で日常的に使われていて、1個100円ぐらいで手に入るが、柄がついていて、冷たい水に手を入れずに汲む事できれば細い流れでも確実に水を受け取るし、柄には穴が開いていて、そこに紐を通してリュックに吊るす事もできるから、水流さえあればいつでも水が飲めるし、もちろん何個も重ねる事ができるし、と便利な事この上ないもので、未だに日本でお目にかかれないのが不思議なぐらいだ。
 さて、いよいよ本格下りだ。と、そう思っているところに雨粒が落ちた。ヤバい。…否、ラッキーと言うべきだろう。視界の良いうちに峠を越えたのだから。かっぱと長靴を取り出して、瓦礫と雪に備える。眼前には雲と雪を半分背負った急峻な峰々が谷間の湖に反射し、僅かに残った青空が白黒の世界に光明を当てる。
 直径1メートル近い角ばった瓦礫の山をゆっくり下る。本当は、瓦礫のすぐ下の雪を下りたいところだが、急坂に加えて所々穴が見えていて、雪を踏み抜けるのが怖く瓦礫にしがみつく。その瓦礫は次第に湿ってきて、永年の苔で滑り易くなっている。いくら氷雪気候とはいえ、人の殆ど通わない所だからうっすらと苔が生えるのだ。やがて残雪の腹に出て、そこを斜めに降りてゆく。次第にくだんの半凍結湖が 全貌を顕わして、陽光さえあれば完璧と言う姿をみせる。出るはため息ばかり。
 更に下る。パラパラ雨はとうに上がり、晴れ間すら見えている。横を見ると、ようやく氷河が 比較的近くに見えて来た。ただ、雪をかぶって、氷河独自の色は全く見られない。氷河なんてまだまだあるさ、そう言い聞かせて、湖に流れ込む扇状地浅瀬を渡った。長靴で浅瀬をバシャバシャ渡ったら、T から速すぎるとクレームがでた。なるほど、そうか、運動靴で濡れないように気を付けながら歩くのが連中にとっては妥当なペースなんだ。
 浅瀬を渡った直後に昼食休憩。景色はよし、腰掛けるに丁度良い大岩はあり、しかも、このすぐ先が段丘の崖下りの様相を見せていて、小腹をすかせたままルート選定する愚は犯すべきで無い。どっぷりと腰かけ、煮込み肉をほおばりながら前方を眺める。
 対岸の、直線で2kmぐらいだろうか、その河原に Nallo 小屋が見える。へえ、この小屋はこんな桃源郷にあるのか。知らなかった。アクセスが大変な分、景色は抜群だ。少なくとも北クングスレーデン本道で最高と言われるシェクシャ小屋よりも素晴らしい。ちょっと考え込んでしまう。今朝こそ、このルートは将来二度と来ないだろうと思っていたが、それは間違っていた。いつかきっと泊まりに来るぞ!
 昼食を終えて崖の横をくねくねと緩やかに下れば、小屋の対岸に出て、同時に小屋からの本道に合流する。いよいよストゥール・レイダ・バッギ(大レイダ谷)だ。地図上でもここからは点線ではなく破線。つまり、ケモノ道では無く、マイナーな山道という事で、高速道路とは言わなくてもまずまずの国道(実際に国道なのだが)といえよう。しかも、平坦なままビスタス小屋まで続く筈だ。これはどうみても初心者向きハイキング路である。とはいえ、この本道から対岸のナッロ小屋へ渡る橋は無い。 かなりの流れにも関わらず歩いて渡る事が前提である。幸い、我々は渡る必要が無いから良いものの、将来再訪する時には念頭に入れておく必要がある。
 シャープなU字谷を東に向かう。昨日、一昨日と違って、両岸の山々が近い。間近なだけに、 U字の絶壁を周期的に波打つカールもはっきり見える。氷河地形をこうも見せつけられると、氷河そのものが見たくなる。幸い、2km先に、この絶壁のてっぺんから氷河が宙づりにせり出している筈だ。それなら雪もかぶっていないだろう。
 それは、同行者達が待ちに待った、 生の青い氷河だった。今、その真正面にいる。いや、真下と言うべきか。秘境の華を前に、単なる休憩では余りにも勿体ない。残り 7km だから時間はたっぷりある。ゆっくりと2回目の昼食をと取った。氷河の対岸は、これまた見事な 扇状自然崩壊だ。氷河も扇状崩壊も、時折出る陽光に突然色をクルクル変えて、何時まで見ても飽きない。同行者達も満足したようだ。
 再出発のあと、急に虫が増えた。これって何かだったよなあ、と思い出せないままに5分ぐらい歩くと、雨が急に降り出した。慌ててカッパを出す。そうだった、今頃になって思い出した…虫が夕立ちの前兆である事を。長靴を出す暇は無いと思って、運動靴で強行するが、これは明らかな判断ミスだ。やがて激しく降り出して、道はぬかり、徒渉場は水びだし、今までほぼ無傷を誇った靴もべちょべちょになる。今さら長靴に履き替えても、もう遅い。雨では休憩どころか小休止すら取る気にもなれず、ひたすら歩き続ける。
 雨が1時間程で止むと、殆ど同時に急峻な山岳地帯から追い分け手前の見晴しの良い高原に出る。ビスタス谷が近い。しばらく雨具のままで進み、太陽の差し始める雲行きから、もう大丈夫と判断して、休憩がてらにカッパを脱ぐ。大レイダ谷の川は遥か彼方を流れ、正面にはビスタス谷を挟む山々が並んでいる。小屋まで 2km 足らず。
 僅かな湿地帯とビスタス川の橋を渡ると、いきなり森林地帯に入る。入山して初めての木立、そこが標高約 600m のビスタス小屋だ。丁度30分の行程のうちに空はすっかり晴れ上がっている。
「こんちわあ」
「やあ、山内じゃないか!」
「今日あたりに来るって云った筈だぜ」
「でも、ほんとに来たんだな」
「まあな」
おくびにも、昨日、ここの事を忘れかけていたなんて云わない。彼の直ぐ後には日本人女性も出て来る。彼と一緒に、今年初めて小屋番しているのだ。ラップランドの山小屋では恐らく初めての日本人小屋番だろう。
 泊まり客はまだ誰もいない。昨日の過密小屋とは大違いだ。到着が早い為だけではない。山小屋ネットワークの東はずれに位置してアクセスが不便なので、もともと泊まり客は非常に少ないのだ。実際、小屋がオープンして今日までの10日ほどで、10パーティ程度しか泊まっていない。せっかく2つもある8人収容のユニットのうちの1つだけで有り余っている状態だ。ただし、それほど不便な場所にもかかわらず小屋があるくらいだから、 景色は抜群である。休暇にもってこいの場所かも知れない。
 客の少ない小屋だが、それでも3日前ぐらいに日本人が泊まったと聞かされて、さすがに私もびっくりした。聞けば我々と全く逆コースとの事。逢った記憶がないので一瞬不思議に思ったが、逆算すると昨日通過したアリスヤウレ小屋ですれ違った可能性が高い。おそらく彼はそこに泊まったのだろう。
 晴れ上がった空を窓の外に、夕食は小屋番の同僚達の手料理でチリと御飯とワイン。飲んべえの同行者が喜んだのは言うまでも無い。素晴らしい歓迎振りだ。何でも、同僚で訪問したのは私が初めてらしい。後日談になるが、我々の訪問した後は悪天候続きで、私以外の同僚で訪問したのはとうとういなかったという。
 明日の行程について小屋番の同僚にアドバイスを願う。腹づもりはタルファラ小屋まで約20kmの山越え上級コースだ。
 ここでいう初級・中級・上級とは、パーティの実力に即して判断している。私単独なら中級コースでも、同行者にとっては上級=チャレンジと言う意味である。全くの初心者なら、1日目の冒頭2時間分で充分に上級コースだろう。エベレストに登るような連中にとっては、今回の全コースが庭を歩くようなものだろう。
 今の場合、初級・中級・上級は、私が不測の事故に逢った場合の対応範囲で決めている。初級コースとは、もしも私に何か起っても、速やかに山小屋に連絡してほぼ確実に私を救出出来るコースを指す。中級は同行者がどうにか山小屋に辿り着けるコースを指し、上級は同行者にも遭難のリスクのあるコースを指す。その意味では、今日の行程は峠越え以外が初級であり、昨日の行程も夕方の『高速道路』の部分が初級に当る。残りは中級だ。1日目の長い行程にしたって矢張り中級には違い無い。そういうランク付けにおける上級に挑戦するのである。山歩き『合宿』の総仕上げと言うべきか。
 決して無茶では無い。もちろん無計画でも無い。寧ろ自然な流れだ。
 後年になって「あれは本当に良かった」と思ってもらえるような山歩きとは、実力ぎりぎりの範囲内で(景色と稀少経験の両方の面で)一番印象的なコースを設定して得られる。だから日本の推薦者からの情報のみで計画を組む初日はともかく、2日目以降は参加者の実力と疲れ具合と天候を見極めて臨機応変に計画を変えるのが案内人の役目だ。高い金を出してわざわざ日本から来ているのだ。生温い行程は後年「あそこまでやっておけば良かった」という後悔を生む。だから「ちょっときついんじゃない」という現在的不平を無視する度胸が私に必要で、更にそういう強引さを不承不承ながらもメンバーから認めさせるだけの信頼関係が必要である。そのどちらが欠けても「人生にとって希有の経験」は難しい。
 同行者は4日後の飛行機で帰る。予備日を含めてあと3日。下山に1日かかるから、上級コースを組めるのは明日だけだ。しかも、始めの2日で山を知り、3日目の今日は事実上の休養日である。上級コースに挑戦するのは自明ではないか。懸念は天気のみ。上級コースともなると大雨では無理だ。本格的な山越えだから雷も怖い。天気が悪ければ、諦めてビスタス谷沿いの下山を考えなければならない。
 同僚の小屋番から得た情報は3つ。先ずは天気予報。これは今日と同程度の天気を予想している。どの程度までが同程度なのか判然としないが、少なくとも大雨でも雪でもなさそうだ。
 悪い情報が1つ。最短コースの途中の鉄橋が春の雪融けで流されたまま、修理待ちだとの事。途中から全く別ルートを取らなければならないのである。5km程遠回りのそのルートは、最後に急峻な氷河の脇を下るという難所まである。
 良い情報もある。彼らは一度タルファラまで行った事があるという。彼が行けるのは当たり前だが、もう1人の日本人女性が行けたとなれば安心だ。我々に行けない筈は無い。
 明日の行程は決まった。下手すると2日がかりになりかねない上級コースである。場合によっては氷河の上を歩くかも知れない。途中の簡易小屋が地図に無かったら、行くのを断念したかも知れない程の未知の世界だ。


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