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スペクトル

 普通のオーロラのスペクトルを取ると緑色だけが現われます。
 と、こう切り出したいところだが、いきなりスペクトルと言ったところで一般聴衆はすぐには反応してくれまい。そこで「太陽光をプリズムに当てたら虹色(のスペクトル)が現われますが、オーロラをプリズムに当てると飛び飛びの色(のスペクトル)しか出てきません。そのうち一番強いのが緑で、次に強いのが赤です」と、いかにも自分で実験したことがあるかの如く説明するのが普通だが、嘘も方便とはよく言ったもので、実際に試してみた事はない。私どころか同僚にもおるまい。科学の現場では、プリズムはすっかり時代遅れとなってしまった。
 プリズムであれ何であれ光を分解したものがスペクトルだ。否、別に光である必要すらない。とにかくデータを1次元に分解したらスペクトルである。当然、その座標軸たる波長も拡大解釈されて、周波数になったり温度になったりエネルギーや大きさや重さや物質そのものや産業になったりする。現代の流行は「化学物質(環境ホルモン)の成分スペクトル」や「携帯電話の発振周波数スペクトル」だし、病院に行けば「薬の抗菌スペクトル」云々と言うし、温泉では「浴槽の温度スペクトル」、銀行では「投資先スペクトル」、ODAでは「発展途上国の産業スペクトル」、永田町では「思想/政策スペクトル」……とだんだん使い方が怪しくなって無秩序状態に陥っている。

 オーロラ研究でスペクトルと云うと、色のスペクトルの他に、オーロラを起こす粒子(これが大気に衝突して光を出す)のエネルギーのスペクトルや質量(成分)スペクトル、その粒子が宇宙から降り込んで来るときに出す電磁波の周波数スペクトルなどがあって、最先端の研究はこれらスペクトルをめぐって進められている。具体的には、プラズマ(=導電性のガス)のエネルギースペクトルが太陽と地球の間でどのように変化していくかを調べたりする。この事情は、日本がついに打ち上げた火星探査機「のぞみ」でも変わらない。搭載された14の観測装置すべてが何らかのスペクトルを得るべく設計されている。
 一般に、ガス(別にガスに限る事は無いのだが)のエネルギースペクトルが Maxwell 分布(粒子の速度が正規分布しているやつ)に近づくほどガスは安定する。左右対称な正規分布は、理屈を考えるまでもなく見るからに安定だ。富士山を見ればわかる(…と、いつも富士山が例えられるが、どうしてだろう?)。故に古来の宗教美術は対称性を重んじて、精神の安定を目指す。但し、いくら左右対称な山でも、あまり切り立っていると如何にも崩れそうで安定感はない。海の穏やかな日に白波は立たないが、波が高いと簡単に崩れて、波打ち際でザブンとくる。サーフィンには良いかもしれないが、一般の海水浴には少々危険だ。産業の偏っている企業城下町や東南アジアは、不況の影響をもろに受ける。プラズマだって同じだ。スペクトルの広いガスは安定だが、スペクトルが狭くなるほど不安定になる。もちろん「広い狭い」は相対的なものだが、こんなものは常識に従えば良い。
 常識とは平均であって、ガスの内外の温度であり、偏差値 40 〜 60 をうろうろしている分子がこれを決定する。一般の高校生男子は 100mを 12〜15 秒で走るが、その中から 13.3〜13.7 秒の生徒だけを選んだら、平均値は同じでもスペクトルの狭い集団が出来る。その違いは 12.5 秒で走る生徒が転校してきた時にわかる。普通のクラスにそんな生徒が加ったところで大して目立つまい。ところが 13.3〜13.7 秒でしか走らないクラスに入るや、コップの中に嵐が起こって、突然女の子にモテる。偏差値 45〜55 に輪切りされた退屈な学校に偏差値 58 の人間が加わっても同様の効果があるが、この場合女の子にモテる保証は無い。これら転校生が「井の中に蛙」に終わるか、「むしろ鶏口となるも牛後となる事なかれ」の見本になるかは当人の自覚による。統計をとると大半は堕落して一部だけが更に才能を伸ばすそうだ。後者をプラズマ物理では tail acceleration と呼ぶ。
 かくの如く、スペクトルの狭いプラズマは外部条件の僅かな変化をもろに受ける。これが行き過ぎて、スペクトルが極端に狭くなると、ちょっと平均からずれただけで、外部が静かでも勝手に自己崩壊して電磁ノイズを放射する。人間の政治意識は右から左まで分布しているのが常だが、これを右にしろ左にしろ或いは中道にしろ、それだけに制限したら全体主義とかファシズムとかになる。全体主義が自己崩壊するのは歓迎すべき事だが、副産物のノイズが恐い。東欧崩壊の混乱のようなものだ。極端に狭いスペクトルの代表は何といってもオームで、彼らが崩壊寸前に放射したノイズの大きさは全世界に知れ渡っている。日本のニュースをほとんど報じないスウェーデンの新聞ですら、オーム裁判だけは今でも載せている。

 逆にスペクトルが広いと太っ腹になって多少の事では動じない。自民党があれだけ悪口を云われながらも旧態然としてられるのはスペクトルが広いお陰だ。世の中がどう転んでも常に共鳴する分子が存在するから自民党全体としては困らない。共鳴分子が力を得て悪口のエネルギーを奪う。この現象を物理学では Wave-Particle Interaction と云う。電磁波という外からの悪口は、共鳴粒子によって見事に吸収されて、結果として自民党の内部エネルギーを高める。核融合実験施設でプラズマを加熱する際にレーザーを当てるのと同じ原理だ。レーザーに限らず電磁波はプラズマを効果的に加熱する。加熱効果の最も大きい電磁波は、現代ではきっとテレビ電波だろう。
 スペクトルと太っ腹の関係はリベラル度にも当てはまる。容認度スペクトルの広い北欧(=個性の多様性が認められる社会)では多少の異端者も難無く迎えられるが、スペクトルの狭い日本では浮き上がってしまう。この異端者を物理学では Super-thermal particle と呼ぶ。ここで云う thermal とは気温、即ち粒子の平均エネルギーを意味し、同じ粒子でも所属する集団が替われば、先の転校生の例よろしく、あるときは Super-thermal であり、別のときは thermal となる。昔のポルノ本は今では全然刺激がないだろう。大阪の御堂筋を時速6キロで歩いても目立たないが、バーゲン中のデパートの地階でそれをやると非常識とののしられる。
 人類の生産力の向上に伴い、人間一人あたりの平均エネルギーは年々増えている。しかも、地球を覆うテレビ電波が Super-thermal な情報をどんどん放射するから、人間のスペクトルはますます広がる。要するに太陽面が爆発した時と同じだ。太陽風と太陽電波のエネルギーが急増大して、緑の筈のオーロラのスペクトルが赤やピンクに広がり、観光客と旅行会社を喜ばす。
 かくも世の中のエネルギーが増大しているのに、昔のしきたり等で無理矢理スペクトルを狭く抑えつけると、異端者の絶対数が増えて不安定を引き起こす。これも Wave-Particle Interaction の一種だ。自民党の場合と区別する為に、前者を Landau Damping と呼び、後者を Beam Instability と呼ぶ習わしになっている。学校に応用した結果は誰でも知っていよう。時代遅れの教師の押しつける「正常」スペクトルが狭いと「突っ張り」や「はぐれ者」が現われ、更に狭くなると「切れ」る。Super-thermal particle のエネルギーは適宜発散させてやらないと、とんでもないノイズを出すのだ。一方、会社というのは大人の社会だから、社員の平均エネルギーが会社のルールを自発的に変えて行き、常識に比べて極端に狭いスペクトルはありえない。それでも合わない Super-thermal な人間は会社を辞めるに決まっている。

 ここで異論があるかもしれない。米国は多様性を容認する哲学を実践しつつも学校は劣悪治安状態にあると。これに対し、米国が多様性を本当に容認しているとは思えないという説や、かつては容認していたがそんな時代は終ったという説もあるが、まあ、日本よりは多様ではあるだろうから考える価値はある。
 上記の物理学立場からは2つの答えが考えられる。社会のエネルギーが非常に高いという事と(エネルギッシュな国だからなあ…)、分布が正規分布ではなくて多重ピークになっているという事。多民族国家は多民族であると言う理由だけで不安定性を抱える。或る民族にとっては Normal な人間でも、別の民族から見ると Super-thermal な危険分子である事はよくある話だ。そのような異民族を一つの国にぶち込むと、不安定を引き起こして、多量のノイズを放射する。Two-stream Instability と云う。田舎者が都会に出ると目を回すようなものだ。異文化どおしの対等なせめぎ合いこそが新しいものを生み出す最大の原動力と言われる由縁でもある。
 プラズマの安定性を決めるものは他にもある。外場と粘性(相互作用)だ。
 地球磁場の中でのプラズマの振る舞いと、磁場の弱い宇宙空間の中で振る舞いは全然違うが、これは、強い外場 (ここでは磁場)がプラズマに方向性を与えて安定化させる為である。明確な目的(方向性)を持った集団は、目的のない集団よりもはるかに統制が取れている。だからこそ、共産党や公明党は多少社会が変化しても「我道を行く」ことが出来て殆ど影響を受けない。思想や宗教の他に戦争も強い外場を与える。偏差値で極端に輪切りされた進学校が比較的安定なのは、その先に受験戦争が見えるからだろう。会社などの一般団体にも「設立の目的」(=利益追求等)という方向性はあるが、戦争の与える外場には叶わない。なお、万事に例外はあって、プラズマの量が多ければ、地球磁場を多少無視することがある。赤信号は皆で渡れば怖くない。Plasma Transfer Event と云う。アメリカの CIA が時々誤算するのはこの為だそうだ。
 不幸にして、人類の方向性は時代とともに弱くなりつつある。2大政党制度が崩壊したのは(アメリカですら事実上崩壊しているそうだ)対立軸という強烈な外場が弱くなったからに他ならない。否、対立軸という外場は確かに存在するが、人間一人当りのエネルギーが外場のエネルギーを超えるようになったので対立軸が埋もれてしまったのだ。方位磁石は温度が 770℃(鉄のキュ−リ−点)を超えると磁性を失い、磁場を無視しててんでばらばらの方向に主張する。
 粘性には2つあって、内在する粘性(蜂蜜を見れば分かる)と壁粘性(川の真中が川岸よりもスムーズに流れるという事)とがある。「他人の目」を気にするムラ型人間は常識的な行為しかとらない。これが内部粘性である。向こう三軒両隣の相互監視で不十分な時は、法律や警察が Super-thermal な行為を抑える。これが壁粘性である。日本には両方あるが、アメリカでは社会的な粘性が足りないから警察力が必要となる。もっとも、エネルギーの高い個々の粒子はあまり粘性を受けない。陸上短距離のエリート選手は脇目もふらずまっすぐに走る。新幹線の運転手は高速狭視症を経験する。同様に、高速粒子は回りの物質の影響をほとんど受けない。レントゲンの写真が取れるのは、X線のエネルギーが高くて皮膚や筋肉ごときでは止まらないからである。出る杭は打たれるそうだが、本当に出る杭は結局出る。否、人によっては打たれたと感じすらしない。要するに、エネルギーの高い人間には少し鈍い所があるという訳だ。だからこそ、Super-thermal な異端者は、いつの時代でも世間の動きに超越して平然としている。老荘思想の説く道者だって常に愚鈍な自由人ではないか。
 粘性係数は分子の平均速度におおむね反比例する。つまり温度と共に粘性が薄れる。どろどろの甘酒は鍋に入れて温めるとさらさらとなる。スープでも同じだろう。油だってそうだ。溶岩だってそうだ。かくの如く、世の中のエネルギーが増大するや内部粘性も壁粘性も衰えて、オームの如き不安定要素が増す。これは物理法則に従う現象なので、手の打ちようが無いらしい。

 あれ、僕は何を書く積もりだったのだろう? ああ、そうだ、オーロラのスペクトルだった。
 オーロラのスペクトルは非常に狭い。だから当然不安定になる筈だが、そうならないのは量子力学のお陰だそうだ。この安定性に初めて注目したのがニールス・ボーアで、水酸化ナトリウム溶液と塩酸を等量混ぜたら必ず食塩水が出来るのも、虎の子に犬が生まれないのも、クローン動物が騒がれるのも、皆この安定性のお陰だそうだ。ただし、それでは生物は進化しないから、なんらかの不安定性がどこかでダーウィンを助けていると思われるが、オーロラにはあまり関係がないらしい。

1998年師走 「スペクトル入門」 山内正敏