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地図

 午後7時半を過ぎて佳境に入った。さしもの広いU字谷もやや狭まり、山路は林から草原へ、湿地から乾燥した傾斜地へと変わる。露出岩を除けばはるかに歩きやすく、夕闇の暗さを除けば実に見通しが良い。入山地点と標高は100mしか違わないが、山奥は厳として山奥だ。対面の山腹に青白く光る氷河は、このコースならではの近さ、この季節ならではの裸姿、この時刻ならではの青さだ。真下にはビスタス谷の最後の蛇行デルタが夕闇の中に浮きあがっている。氷河だけならどこにもあるが、この組み合わせは随一のものだろう。全ての苦労が報われる。
 秋の日の釣瓶落としと言う。8時を回るとさすがに薄暗い。まだ路に迷うことはないが、さりとて岩だらけの道ではとても走れない。峠の土饅頭小屋はまだまだ遠い。いよいよ覚悟を決めてビバークにふさわしそうな場所を捜し始めた。乾燥地を選ぶなら崖の自然崩壊した所があるが、ごつごつして簡単には寝られまい。平坦地を選ぶと今度は湿っている。草地はもっと悪い。それよりも何よりも不意の雨が恐い。天気予報では「持つ」との事だったが、さっきから見ていると、雲はますます厚く、今や空の殆どが黒雲に覆われている。こんな所で雨にあたっては百年目、いくら傘があるとて、雨降りのビバークは御免だ。
 たしか峠の2〜3km手前に橋がある筈。さっき地図を見たとき存在だけは確認してある。それが現実的な目標地点と云えよう。橋といっても網板を敷いた吊橋だから、橋そのものが雨除けになるとは思わないが、橋のあるような川は水量が多いから、大抵両岸が大きく削れて、岩のうつろがあったりするものだ。雨の心配のあるときの野宿には無難だろう。橋を目指すもう一つの理由が、この辺りで唯一の人工建造物だと云う事。自然の脅威に包まれた時は、役に立とうが立つまいが、人工物の近くと云うだけで何となく心強い。ここからだと、あと5〜6kmだろうか。頑張れば届かない距離ではあるまい。
 鉄橋に向かってひたすら歩く。谷はますます狭く、闇はますます深く、雲はますます多い。雲というのは普通は街の灯を反射して郊外の山を微かにせよ照らしてくれるものだが、当地で望むべくもなし。次第に足下が覚束なくなってきた。そこは露出石の多い山路だ。先程までの超悪路よりマシとは云え、日本の山に比べたら悪路である事には変わりない。しかも疲れで足が上がらない。とうとう露石をまともに蹴ってしまった。親指の爪がうずき、思わずしゃがみ込む。それほどの痛みだ。生爪が剥がれる事は免れまい…せっかく昨年の黒爪が再生したばかりだというのに。
 静かな闇…あたかも未開時代を思わせる闇を歩くうちに、とうとう路を見失った。注意深く路を選んで来たものの、いつしか岩場の飛び石地帯に迷い込んだらしい。下には水が流れている。午後9時。空に残る微かな闇光を頼りに、岩を1つ1つ注意深く飛びながら道を捜し回る。せっかく橋の近くまで来ているというのに…ほんの1km ぐらいの筈なのに、暗さは限界らしい。このまま山路が見つからなかったらいよいよビバークだな。そう覚悟を決めた矢先にやっと路が見つかった。10分ほどのロスだったろうか。
 正しい路に戻って10分ほどで谷川らしい雰囲気の所に出た。大岩がごろごろしている。嬉しくなって上流かなたを眺めると、あるある、遠いながらも確かに吊橋が見える。尤もここで喜んではいけない。雨露のしのげそうな場所を捜さねばならぬ。急いで橋まで登って、平たく且つシェルターになっている所を捜す。橋の下には予想通りすべすべした岩棚が大理石の如く広がっている。それは良いが、雨を避けられる程のほこらが見つからない。小さな窪みはあるものの…しゃがみ込めば雨やどりぐらいは出来るだろう…が、寝られる程には広くない。橋の真下も駄目と見える。対岸まで渡ってみたが、こっちは完全な崖。露天の岩棚に寝るしか無さそうだ。そこなら雨が降っても直ぐに例の岩窪みに逃げ込める。
 今日の行程に終止符を打つ前に地図を開く。峠までの距離、路、小屋の位置等だけは確認しておきたい。ところがである。暗くて地図が読めない。全く読めない。
 …そうなのか、こんなに暗くなるまで歩いて来たのか。
 …じゃあ、やっぱりここに泊まるべきだな。
 …それにしても地図が読めないのは不便だ。
 …そうだ、腕時計のライトがある。液晶の字が読めるなら、地図だって読めるかも…。
そう思って、2000円のカシオのライトを点けると、果たして地図がなんとか読めた。懐中電灯の代わりに腕時計のライト。そして奥山の中の完全露天のビバーク。おまけに、今にも雨の降りそうな曇天まで付いている。まるでジェームズボンドの世界と云えよう。

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 余りの寒さに目を覚ますと、いきなり光の乱舞が目に入ってきた。
 オーロラ…それも爆発直後の激しい動きだ。
 雨を思わせる谷川の激しい音がオーロラの静けさを際立たせる。邪魔する明かりは何一つ無い。体は寝袋の中で凍えているが、目の前に繰り広げられる天龍の舞いだけは寒さを忘れさせてくれる。ビバークも悪くはない。
 ふと我に帰って雲を捜す。
 無い!…あるのは全天に広がるオーロラと星ばかり。寝入る前にあれほど気に病んだ雨の心配はすっかり消え去ってしまった。
 時計を見ると午前2時。うつらうつらながらも数時間は寝たのだろう。とにかく眠れない。寒くて硬くて眠れない。9月といえば霜の降りる季節と云うのに、よりによって納涼の本場たる谷川の岩棚に、マットも無しに直接寝袋を敷いているのだから、その寒さは日本の橋の下とは訳が違う。床岩は世間よりも冷たく、川風は税金よりも身を切る。しかも生まれて初めての完全野宿。今の私にできる対策と云えば、地面との接触面積を小さくする姿勢と、風上に立てかけたリュックと傘のみ。傘は不意の雨にすぐに対応できるようにと準備したものだが、結局風を避けるのに役立った。ビバークの際の風除けに傘を使うなんて、確かに007の世界かもしれない。それを土曜朝の気紛れな思いつきの延長で出来るところにキルナの山の凄さがある。…或いは私が少し異常なだけかも。
 さあ、もうひと寝入りだ。こんな山奥でのオーロラは確かに素晴らしいが、今はとにかく体を休める事が全てに優先している。寒さゆえに眠れずとも、とにかく目を閉じてオーロラを忘れる。山奥のオーロラが楽しみたければ、余裕ある日程を組んでテントか山小屋に泊まるのが筋だろう。数年前に友人と「オーロラ見酒」会をケブネカイゼ山荘で開いたことがあるが、真暗なところに車座になって、オーロラを観ながら静かに酒を飲む趣は、ぎらぎらと明るい花見酒と違って、まさに酔雅な世界だ。8月下旬〜9月上旬の季語。他の時期にもオーロラはあるが、外でゆっくり酒を楽しむ気候ではない。
 2時間後、猛烈な寒さを感じて、とうとう起き出した。まだ星も見える夜明けの空とはいえ、午前4時は歩行可能な明るさだ。今歩き出せば、朝食の時分にはアレスヤーレ小屋に着くだろうから、そこでお湯を沸かすついでに休んだほうが賢明だろう。さっそく準備を始めた。昨晩洗っておいた靴下はまだ湿っているが、足に豆が全く出来ていないので、これを再使用する。どのみち靴が濡れているから、新しい靴下を出したところで余り意味はあるまい。問題は豆ではなく爪だ。昨日3度も露出石にぶつけて、想像以上に被害が大きい。靴を履いただけで痛みを感ずる。出発は4時半。

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 薄闇の中を歩き出して30分もしない内に、昨日の目標地点の一つである土饅頭小屋を通過した。典型的ラップ様式の小屋ではあるが、その実は土のテントと言ったほうが正しい。原住民サーミはトナカイ放牧で生計を立てており、その為あちこちに簡易小屋(土テント)がある。もちろん鍵なんか無い。自由に入って自由に泊まる。それがラップランドの原則だ。この原則は1970年代までは普通の小屋(別荘)にも及んでいたが、最近はストックホルムやノルーウェーの悪影響で、鍵をかける別荘が増えてきた。都会は常に悪い風習を田舎に持ち込む。
 腹が減ってきた。アレスヤーレ小屋までの6〜7キロなんて朝飯前だと思っていたが、昨日の強行軍+睡眠不足の後では、さすがに直ぐに空腹を覚える。本格朝食ではないにせよ、軽く何か食べようと思って、峠近くの小川で一回目の休憩を取った。まだ出発から45分歩いたばかりだ。
 無意識にパンを取り出す。が、ここで、はたと手を止めた。
 西洋にはムスリという、コーンフレークの元祖の様なものがあり、軽いわりには栄養があって腹もふくれる。甘味はない。外の国の事情は知らないが、少なくとも北欧のムスリはそうだ。これにフィルと云う酸っぱい牛乳(半乳半ヨーグルト)をかけたら完全な健康食で、スヱーデン人はこれを毎朝食べて長生きの秘訣としている。尤もムスリ自体は必ずしも牛乳で食べる必要はなく、オレンジジュースでもスープでも良い。もっと栄養価を上げようと思ったら肉スープに入れる手すらある。だから泊りがけの山行きには非常に重宝で、大抵の人がムスリかオートミルのどちらかを山歩きに持っていく。
 今回ももちろん持ってきている。ただし牛乳はないので、液体をどうにかしなければならない。オレンジジュースやブルーべリースープがあれば代用出来るのだが、今日はそれも無いから、当初の予定では粉ミルク(正確には胚芽)を考えていた。山小屋でお湯を沸かして、それで溶かしてミルク代わりにしようという訳だ。だからこそ、ここは軽くパンでつないで、4キロほど先の山小屋での本格朝食を考えていた。しかも、お湯さえあれば、赤飯の残りの2袋を温める事すら出来る。
 パンに手をかけようとした矢先、ふと思いついた事がある。スポーツドリンクだ。これをムスリにかけてみたらどうだろうか。オレンジジュースで食べられるのなら、オレンジ味のスポドだって構うまい。実は、スポドは一回限りの効果しかなく、超長距離ではかえってマイナスの効果すら持つ。でも、それはムスリの栄養が補ってくれよう。そう決めて、水筒に汲んだ川の水に粉末を混ぜた。
 北欧の素晴らしさの一つに水がそのまま飲める事がある。北に行くほど水質が良くなり、山奥に行くほど美味しくなる。特にスカンジナビア山脈では、川の生水がそのままごくごくと飲めるのである。消毒用のケミカルも入っていないから健康にも良い。少なくともボトル入りで売っている水なんかよりは、はるかに味が上等ではるかに安全である。
 日本だって昔は良かった。特に道路の切り通しでは、必ずといって良いほど美味しい湧水が崖から勢い良く落ちていたものだ。夏のサイクリングで何度もお世話になったから忘れやしない。しかるに、最近の国道と来たら、崖崩れ対策が完璧すぎて、切り通しから落ちる水を楽しむ機会が全く無くなってしまった。残念なことだ。ちなみに私が以前住んでいたアラスカでは、川の水はおろか、井戸水ですら寄生虫の危険があって飲めなかった。自然は似てても水は違う。
 もっとも、どんなに美味しかろうとも、水だけで味気ないムスリを食べる気はしない。だからこそスポドを使ってみる気になったのだ。せっかく粉末を持って来てるのだから、ものは試し、これでムスリを食べてみよう。もし OK なら、朝食のために山小屋にストップする必要がなくなって時間がかなり稼げる。何といっても今日は時間との闘いなのだ。昨日45km余りに9時間半もかかったのに、その疲れの残った今日は 40キロ以上を7時間で行かねばならぬ。
 味は…まあ食えない事はない。少なくとも今日の様に急いでいる時は朝食の用をなす。15分程の軽食の合間にちゃっかりと靴下を脱いで足を乾かす。疲れのたまった2日目は豆が出来やすいから、あらゆる機会に足先を乾かし靴下を絞る必要がある。

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 峠を越えると、1キロほど向こうにアレスヤーレの大きな湖とサーミの村が見えた。原住民の村はこんなところにある。一番近い道路が今日の目的地たるアビスコだから、村から近代文明まで40km近くも離れている。昔からある村なのに、未だに道路を引いていない。電気も水道も電話もない。それでも、サーミの人々は悠々と生きている。湖の魚とトナカイとツンドラの野苺だけで何百年も生きてきた人たちだから、道路なんか必要ないのかも知れない。尤も、一年の半分以上が雪に覆われて、その間、スノースクーターが使えるから道路がいらないという現実も大きい。つまるところ、スクーターのお陰で道路を作らずに済んでいるという訳だ。ストックホルムの連中は「スクーター=環境破壊+騒音」と信じ切って目の敵にしている様だが、道路を作るのと、道路の代わりのスクーターとでどちらが環境に悪いか一目瞭然だろう。現地の事情を知らずに首都の連中の言うことを鵜呑みにすると、とんでもない誤解をしてしまうものである。それはスヱーデンでも同じこと。連中は寛大な妥協のつもりで「娯楽目的のスクーターを禁止すべきだ」などと言っているが、それなら娯楽目的で車を使うのも禁止しなければ釣り合いが取れないではないか。ラップランドの連中が首都の連中を「唯我独尊」として嫌うのも当然といえよう。北欧における南北のギャップは大きい。
 サーミの村から湖を迂回するようにアレスヤーレ小屋に向かう。冬なら湖を突っ切れば良いが、夏は4キロの迂回をしなければならない。30分ほどでアレスヤーレ小屋に着くと、ちょうど管理人が外に出てきた。ちょっと年配の人だ。
 「おはようございます」
まだ6時半だ。
 「今日は何処まで行きはるんか?」
挨拶言葉は世界共通。行き先と天気が話の枕である。
 「アビスコ。で、そのままキルナに帰ります」
と、ここで止めて、ある質問を期待する…いつ何処から入山したのか、何処に泊まったのか。訊いてさえくれれば昨日の気違いぶりが自慢できるのに…。
 「お願いがありますんけど、手紙を出してくれへんか?」
なあんだ、それで行き先を尋ねたのか。ともかく答えは一つだ。
 「もちろん」
これ以外には考えられない。
 「ほんなら、少うし待っててくらはれ」
そう言って、すぐに小屋に戻って手紙を取ってきた。
 「どこで出してくれはってもかまへんから」
 そういえば昨年も山郵便の頼まれものをした。南から順次北に向かってのリレー配達で、北向きハイカーが不足してる折から、たまたま通りがかった私が頼まれたのだ。そのあと泊まった山小屋で宿帳を調べたところ、毎日数十人も泊まり客があるのに、そのほとんどが南行きで、北行きは週に2〜3人だけだった。今回で夏縦走は2回目だが、2回とも郵便を頼まれる羽目になったのもそのせいかも知れない。もっとも今日の場合は朝一番だから頼まれたのだろうが。
 彼が手紙を出したい気持ちは良くわかる。私だって、インターネットが普及するまでは手紙を良く出したものだ。人間は孤独な方がものを考えられるし書き物もはかどる。西遊記によると、仙人になる修業の一つに人とお喋りしない事がある。お喋りが集中力を破壊して、せっかくまとまりかけた思考(悟り)を散逸させてしまうからだ。もちろん、お喋りが閃きを生む事は多い。筒井康隆の唯野教授もそう云っている。だが、どんなアイデアも定着させなければ悟りは得られない。その点、山に籠もって手紙ばかり書くのは最高の修業だろう。わざわざ徒然草を引き合いに出すまでもない。ちなみに、相当の饒舌である私ですらこの修業が可能になっている。キルナ市内に日本人がいないからだ。いや、行政区域としての「キルナ市」(=四国並みの面積)にはもう一人だけ日本人がいるが、彼女は郊外に住んでいるので年に1度ぐらいしか会わない。その点でもキルナは有り難い。
 アレスヤーレからはクングスレーデン自然歩道の本道である。路の整備の度合いが全然違って、まさに「高速道路」だ。だから、目的地まで37kmあるものの、今までの「時速4〜5km」という悲惨な行程ではあるまい。昨年の記憶によると、このアレスヤーレを9時前に出て、剥げかけた生爪と豆だらけの足を引き摺りながらアビスコに3時前に着いた。しかも雪融けの洪水で、川を渡るのに苦労しながらの時速6km行程だった。それにひきかえ、今回は生爪は痛むものの豆は全く出来ていない。水の枯れた9月だから、路だってはるかに歩きやすい。天気は上々。ペースを落とす要素は見当たらない。ならば6時間後の汽車には悠々間に合うだろう。でも、念のために小走りで急ぐ。
 生爪が痛む。昨年よりもはるかに質の悪い剥離らしい。それもこれもすべて靴が悪い。否、日本の靴メーカーが悪い。西洋さえ真似れば何でもかっこよいと思い込む悪風習は、靴の世界では特に顕著で、日本のメーカーは日本人の足に合う靴を作らない。騎馬民族たる西洋人の足は、つま先の細い三角形だが、農耕民族たる日本人は、なによりも田圃の中での安定性が優先する遺伝から、つま先の広い逆三角形である。ところが靴の見かけは西洋型が標準で、日本はそれを単純に猿真似している。無理が来るのは当然だろう。かくて子供のうちから足を靴に合うように修業する事が常識となり、結果的に大抵の人の小指は歪な成長をしてしまっている。この事情は運動靴にも及び、果ては、足幅(つま先幅)の広い人間はマラソンには向かないなどという飛んでもない迷信まで生まれた。そりゃ確かに足幅が広ければ合う靴が無いからマラソンには向かないだろう。一時期、幅広靴が売り出された事もあったが、広げるべきところが間違っていて、つま先は一向に広がらない。一応、某メーカー(本社アメリカ)だけがつま先の広い靴を出しているが、残念ながら都会専用のメーカーなので、滑りやすい山路に向く靴は出していない。故に最近は他メーカーの準幅広靴で我慢しているが、一日歩いたら必ず生爪が剥がれる。今回もその例に漏れない。豆の方は昨日の対策が功を奏してまだ出来ていないが、足先の疼く苦しみは昨年と同じだ。走るに走れず、少々焦る。
 アビスコヤーレ小屋を10時20分に通過した。どうやら、昨年と同じペースらしい。路が良いのにペースが同じなのは、爪の痛みのせいである。それと疲れ。昨年はアレスヤーレの山小屋に泊まったが、昨晩は野宿でしかも今朝アレスヤーレまでに2時間も歩いている。食事だって昨年のほうが良い。途中の飲物もそうだ。昨年はブルーべリースープがあったが、今年はマイナス効果を持つスポド。その差は大きい。
 でも、ともかくこんなペースでのろのろ歩いていては、2時間後の汽車もあぶない。アビスコまで、あと15kmもあるのだ。痛みを強引に無視して走る。疲れで足が全然上がらないが、歩くよりは速い。ところどころの泥水もものともせずに、とにかく頑張って、駅の手前 500m のアビスコ渓谷に12時10分に着いた。さあ、着替えと洗濯だ。汽車に乗る前にどろどろの靴を洗わねばならない。それほどべちゃべちゃになっている。ただし豆は出来ていない。しかも、たった1足の濡れ靴下で完走したにもかかわらずである。今回初めて導入した「靴下対策」は自賛できよう。一応数足の予備は持って来ていたが、「実験精神」と「勢い」によって、最後まで使わずに済ませてしまった。満足満足。
 豆対策の成功は良いが、汽車まで時間がない。手早く着替えて、急いで駅に向かう。5分後、駅に到着と同時に汽車が滑り込んできた。12時25分。25時間弱の行程を考えれば、これ以上完璧なタイミングは考えられまい。かくて、ついに制限時間ぴったりで、この超難コース90kmを走破してしまった事になる。ストレスはすっかり霧散してしまった。

1998年9月5〜6日 「ビスタス谷縦走」  山内正敏

後日友人に自慢したら、感心される以前に異常人扱いされてしまった。食料も装備も超軽装だからだそうだ。それには納得する。