(朝日webronzaに書いたものです)
環太平洋経済連携協定(TPP)のための日米の事前協議で、日本がアメリカに歩み寄って、著作権の保護期間を米国並みに延長することを、既に3ヶ月前にアメリカに打診していたとの報道があった。政府は、「誤報」といいつつ、「結論を出したわけでもない」「関心事項について今後協議をしていく」と、著作権の保護期間が交渉次第で変わりうることをほのめかした。TPP交渉自体が秘密のベールの中にあるので、真相は闇の中だ。この件は7年前にも議論になり、多くの公開議論を経て、延長は見合わせるという結論に達している。今回の報道が正確さを欠いたとしても、秘密交渉であるTPPではこれまでの国内議論が完全にないがしろにされうると知らしめた意義は大きい。その点で、TPPは極めて非民主的な手続きと言わねばならない。
ここではTPPとは切り離して、著作権の保護期間延長について論じたい。著作権はベルヌ条約により、作者の死から一定期間が保護されており、日本では50年を採用している。それを米国に合わせて70年に延長するかどうか。私は研究者の立場から、延長には断固として反対である。同時に著作権侵害を親告罪(侵害された当事者が訴え出た場合だけ罪が問われる)から非親告罪(訴えがなくても当局が摘発できる)にする案にも反対だ。
芸術や娯楽のイメージの強い著作権だが、実は研究論文も一般に著作権の対象となる。著作権は創作時に発生するもので、権利獲得のための特段の手続きは不要だからだ。そして論文を出版する場合、著者が数万〜数十万円の投稿料を払ってにもかかわらず、この著作権を出版社あるいは学会に譲渡するのが当たり前になっている。しかし、この慣行ならびに死後70年という保護期間の長さは、弊害が大きいと常日頃感じている。
例えば、アインシュタインの特殊相対性理論(1905年)と一般相対性理論(1916年)は、その内容も方程式も人類の財産として、ネット等で自由に読めるし、だれもが自由に書いたりしている。しかし、その原論文は未だに著作権の対象のはずだ。というのもアインシュタインが1955年に亡くなって58年「しか」経ていないからだ。保護期間が長くなるということは、こういう歴史的論文を読む機会を圧倒的に減らす。
それだけではない。私はスウェーデンの税金から給料を貰っているが、書いた論文の大半は米国の学会誌から出版されている。その結果、著作権も米国に握られているのである。その著作権は私の死後70年に渡って生き続け、その間、米国の出版社と米国の学会が独占的に運用できる。現に、1930年代の歴史的論文は、学会員であっても、新作論文なみの対価を払わないとダウンロードできない。これが「著作権の保護期間」の科学現場における実態だ。
日本の税金によって得られた成果も、多くが論文の著作権を米国に握られている。従って、例えば国立国会図書館がこれら日本人論文のオンラインアーカイブを作ろうとすれば、50年前に書かれた論文であっても、著作権をもつ米国の出版社や学会に使用料を払わなければならなくなる。
著作権は翻訳をも制限する。日本人が英文雑誌に載せた論文は、原則として日本語訳を公開できない。最近は執筆者本人に限りこれを認める学会も増えて来たが、歴史的論文の日本語訳は今でも正式手続きは難しい。最近の例では、国連文書に著作権が設定されていたため、放射能汚染への対策の虎の巻である国連チェルノブイリ・フォーラム報告書の翻訳が、福島事故後5ヶ月目に仮完成していたのに公表が2年後になってしまった。
私はこの現状が納得できない。なぜ著作権を出版社に渡さないと出版できないのか。なぜ私の死後ですら私の論文を無料公開できないのか。なぜ自分の論文の翻訳を公開できないのか。なぜ研究者の求めに応じてメールで送ることが禁止されなければならないのか(個人のやりとりですら禁止と明言している雑誌が多い)。出版社が出版費用の元をとるための一定の独占使用は仕方ないが、それは常識的には1年、長くても10年を越えないはずだ。
研究者にとって、最大の喜びは、自分の研究をより多くの人が理解し共感してくれることだ。だから、私は自分の論文に著作権などというものが存在しなければどれだけ素晴らしいだろうかといつも考えている。論文なんて、それを私が書いたと明記さえしてくれれば、いくらでもコピーして貰って良いし、そのほうが嬉しい。だれかが他の言語に翻訳して公開してくれるなら、もっと嬉しい。 もちろん、これは、研究の対価として給料(それは老後の年金も含む)を貰っているから言えることだ。しかし、逆にいえば、必要な対価さえ貰えれば、同じことは、作家や漫画家、芸術家にも言えるはずだ。自己の作品がより多くの人間に鑑賞されることが最大の報酬だろう。特に生計との両立という問題から開放される死後に置いては、それのみが唯一の関心事と言えよう。
死後の長い期間に渡って著作権が保護されるということは、著作権者の子孫の個人的利益が世の中の発展より優先されるということだ。そもそもクリエーターの死後の著作権という概念自体が間違っていると私は思う。著作権に関するベルヌ条約の根底は、孫や曾孫(子供ではない)のための特権保護という考え方だが、現状では文芸の質を守るというより、非生産者の不労所得を増やしているという面ばかりが目立つ。
昔であれば、作品を生み出すために家庭をも犠牲にしなければならなかったから、死んだあとの被扶養者への手当ても必要だったかもしれない。更に、出版にかかる手間が今の数倍あったから、その元を取らせる必要があったのも仕方ない。しかし、今は違うのだ。
無論、海賊版やネット悪用などは防がなければならない。しかし、これらの問題は、最近20年以内に作られた作品に対して起こっているのであって、死後50年もたったような個人作品が対象ではあるまい。更に、死後の長い期間にわたって著作権を保護することには逆効果もありうる。古い作品がらみのトラブルが頻発して、「著作権法は悪法」という認識を広げ、遵法精神を失わせる危険があるのだ。
ちなみにTPPでは著作権侵害の非親告罪化も俎上に登るらしいが、これまた弊害が大き過ぎる。というのも、現状では、厳密には著作権侵害だが、権利者が大目に見ている例が多いからだ。上述のメールでの送付にしても、実態としては大規模でない限り古い論文については大目にみられ、当人の翻訳にしても翻訳でなく解説という形で黙認されることが多い。ネットを通しての勉強会で論文を共有する事も大抵はとがめられない。少なくとも侵害と判断された時点で連絡が入り大事には至らない。しかし、これが非親告罪となったら、科学現場を理解できない第三者が騒ぎ出し、警察が摘発に動く可能性だって出て来るのである。ただでさえ冤罪の多い警察に余分な「自由裁量」権を与えるだけというのが、現状の保護期間のままでの非親告罪化から予想される帰結だ。そうなったら、研究者達が萎縮して科学発展に不可欠な情報の交換が滞ろう。
科学者の立場からみると有り得ないような『死後の権利保護』議論が、秘密裏に進んでいるのが、TPPをめぐる著作権交渉である。日本政府にはTPP交渉にあたり過去の国内議論をきちんと反映させるか、そうでないのなら新たな議論の場を作って欲しい。わずか1ヶ月の意見公募で誤摩化すのはなしだ。
written 2013-7-7
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