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推薦すべきが、無視すべきか

山内正敏

 現在、学会の若手賞の推薦を、若干迷いながら書いている。なぜ迷いながらかと言うと、研究で給料を得ている『現役研究者』を対象とする学会賞の存在に、すっきりしないものを感じているからだ。もちろん、学会賞の存在の是非を云々する事と、既に定着している既存の学会賞に相応しい人間を推薦する事は別の次元の問題であり、特に若手賞の様に、その業績をきちんと評価出来るシニア研究者が少ない場合、推薦すべき立場にある者が推薦を怠ると、一種の不公平を引き起こして、ひいては学会賞の価値そのものにまで響き兼ねない。そして、その『推薦者になるべき立場』に私がいると自覚してるので、困っている訳だ。いかに学会賞の存在に懐疑的な立場とはいえ、推薦しない事が、既に定着しているシステムをおとしめる行為に結果的になり得る場合、学会員としては一概に無視を決め込むのも後味が悪い。

 私は学会賞そのものには反対しない。というのも、かつて研究分野をリードしてきた先生方に、分野の発展への貢献に対する感謝をしたいのは自然な情であって、尊敬する先生方に感謝の表す意味で、学会賞の類いがあると便利だからだ。だが一方で、研究で給料をもらっている現役研究者が、その研究業績ゆえに賞を貰うのは、市会議員の手盛り歳費や破綻した投資銀行トップの賞与と五十歩百歩に思えてしまう。そもそも、趣味の延長である研究で給料を貰って、さらに賞まで貰うなんて、根本の所で不公平ではないか? そういう疑問が頭から離れない。
 同じ給料を貰いながらも、人によって研究成果(或いは広く研究分野全体への貢献)に差があるのは世の常だ。そこで、何らかの方法でそれを評価するという考え方が出て来る。だが、この評価と云うのがくせ者だ。今のように研究対象が細分化された時代では、一定レベルの研究でさえあれば、評価する人によって優秀・独創的とされる研究内容は確実に違う。どの研究も高く評価される可能性があるからた。例えば、ある分野では全然評価されなかった研究が新分野の創設に繋がる事が往々にしてあり、その結果、ノーベル賞にまで結びつく事すらある。こういう事実は、学会内だけでの客観評価が難しい事を示している。
 こう考えると、純粋に研究業績(それは研究に伴う業務や開発を含む)に対する賞というのは有り得ない気がしてくる。そもそも、研究者の流動性の高い現代に於いて、傍目に研究(+周辺雑務の合計)の出来る人は引っ張りだこであって、就職や昇進という別の形で評価されていし、本人だって、それを論敵認知や研究チームからの期待などの形で膚で感じるものだ。だから、プラスαという意味合いの賞を与える意義を私は見いだせない。
 一方で、研究職でなく、高校教師や短大講師や闘病などの、研究環境の困難な人々が、給料の為の仕事をきちんとこなしながら、一定レベルの研究や雑務をしてくれれば、これは何らかの形で表彰するべきだと感じている。研究費の優先的配分が必ずしも有効な表彰方式で無い場合、学会賞という形も必要だと思う。だが、そういうケースは非常に特殊で、10年に一度ぐらいしか無い。ちなみに私はリハビリ中とはいえ、研究環境は非常に恵まれているので、このケースにももちろん当てはまらない。

 以上が学会賞に反対する主な理由である。しかし現実には、現役研究者対象の賞は確かに存在し、それなりに機能しつつ定着しているように思える。となれば、一概にダメというのでなく、どういう場合に現役研究者が賞を貰っても良いのか(推薦しても良いのか)、という自問に行き当たる。混乱を避けるため、ここでは若手賞に限って考える。

(1)研究関連
 以上にまとめたように、研究のみの評価で賞を出す事にはほとんど意義を見いだせない。しかも、若手賞の場合、本人の実力よりも推薦者が賞の行方を左右するのではないか、という疑問が常に残る。昔、同期の学生の間で、この事は暗黙の了解事項だった。むしろ、『良い』研究と云うのは、賞の為の十分条件では決してなく、研究者としての足切りレベルの必要条件と考える方がすっきりするのではないか。これすら満たせない若手は研究分野に残るべきではない。
 少しでも抜きん出た研究をしているのなら、昨今の就職難の時代に『パーマネント職にありつける』という、より大きい褒美がある。そのボーダーは極めて曖昧だ。そこに賞まで加えたら、僅かな違いを境に、一方が賞+就職、もう一方がポスドクつなぎのみ、という差が出る可能性が出て来る。これは明らかに不公平だ。故に、『素晴らしい』『独創的』研究のみを対象として誰かを推薦する事は私には有り得ない。
 その一方で、新しい分野の開拓という面だけは、別個に評価する価値がある。というのも、そういう萌芽的研究は就職に結びつかない事が多いからだ。特にポスドクの身分でそれは難しい。逆に言えば、ポスドクや助手の公募における研究題目としてあり得ないような研究をしている若手研究者には、その身分を安定させる為の手助けとして、学会賞を出す事はあり得る。だが、この場合も、それを誰がどう評価するか、という問題が残り、上記と同じジレンマを抱える。

(2)雑用
 研究に雑用は付き物だ。そして、研究の為の給料には、研究に伴う雑用に対する報酬も勿論含まれていて、これは地位が高くなる程、その量も飛躍的に増える。また、人によって雑用の得意な人と研究の得意な人がいるのも当然で、それらの総合評価で一人の研究に対する寄与が決まる。これらを合わせると、雑用に対して特別に評価する意義を見いだせない。私の場合、幸運にも私より若いスウェーデン人で雑用の得意な人がいるので(研究所の他の分野のトップは全て外国人)、政治的な意味合いも合わせて、お互いの合意により、その人へのつなぎ程度の雑用で私は済んでいるが、そうでなければ雑用を引き受けているだろう。
 雑用(学会へのサービスを含む)を推薦の理由としたくないもう一つの理由は、私の病気の一因が過労にある為だ。もっとやれ、もっとやれ、もっとやれば賞が待っている、というのは労働環境を考える上で許すべからざる風習と考える。故に、私は雑用に対する報償、時間外労働に対する報償としての学会賞には断固反対だ。それは私の様な病人を増やすだけの制度に過ぎない。

(3)困難な研究条件
 研究の業績や学会への貢献に対して本人を讃えるという意味では、私は若手賞の意義を認め難い。しかし、評価基準はそれだけでない。若手の目標の為に設置するという意味合いでは別の可能性もある。そして、これに関しては、確かに賞の意義を見いだせる。私にとってのそれは、茨に見えるような進路を選ぶという面だ。
 私が博士課程で留学する前は2〜3年毎に先輩方が博士課程の留学をし、毎年のように先輩方が欧米のポスドクに行っておられた。博士の学生やポスドクと云う不安定な身分で海外で研究する事は、長い目で見て決して悪い事ではないが、それは日本とのつながりが無くなる危険をはらむ冒険でもある。その為か、日本で学術振興会によるポスドク制度が始まるや、ポスドクを海外で過ごす人が比率として減っており、海外で博士号を取る人に至っては、私を最後に10年以上いなかったし、今も極めて少ない。私にはそれは非常に残念である。だから、こういう、敢えて不安を感じる道を選ぶ態度は、研究成果とは別に評価しても良いと感ずる。少なくとも、こういう意味合いの評価なら、学会の外の人間が見ても分かり易い。
 茨のように見えるのとは裏腹に、海外での正式ポスドクは実は恵まれている。海外できちんと成果を出して正規職に就く事は、日本で想像するより遥かに簡単な事だからだ。寧ろ、海外に出てすら評価されないようだったら日本に於いても研究職には向かないと言えよう。つまり、茨に見えても決して茨の道ではない訳だ。となると、私が評価対象にし得るのは、それ以上の茨の見える道(その実、実力が評価される道)を選び、かつ、きちんと成果を上げている人に限る。そして、その場合なら、後進に新しい道を指し示す意味で、若手賞というものを出しても不満は無い。というのも、この場合、学会内だけでなく。学会の外から見ても、その人間が賞を貰う事に異論が出ない筈だからだ。

 このように考えると、研究成果や学会雑務への寄与は足切り最低条件であり、それを一見困難そうな研究条件で達成した場合のみ、若手賞を推薦しても私の良心に反しないという結論に達する。私の学会賞そのものに対する態度は『研究で給料を得ている現役研究者を対象とする性質の賞なら反対』で変わらない。ただ、既に学会賞が存在する以上、推薦文を書くこと自体は決して、上記の条件を満たせば私自身の道義に反した行為ではないだろう、と感じているだけの事である。
 迷いは消えない。だが、こういうのは何処かで結論を出さなければならなのだ。推薦するのと無視するのと、どちらが総合的に考えて科学の発展に寄与するのか? そういう話だ。他にも私が若手賞を推薦しても良いと考えられる条件はあるかも知れないが、今回はここまでで十分だろう。
 もちろん、実際に推薦する場合は、推薦される本人に意思を確認しなければならないのは言うまでもない。

2008.12.30