なんというダイナミックス、なんという激しさ、なんという音、広がり、量、踊り、乱れ、爆発、水煙…。そもそも言葉で表わそうというのが無理なのだ。百聞が一見に如かないのは勿論のこと、百枚の写真も、いや大画面ビデオですら一見に如かず。まさにオーロラ嵐の如し(もっとも、オーロラはこれに光と色の美しさが加わるが…)。
 この壮大にして華麗な水流は、広大な激動と、一点集中的な狂乱を、更に広漠とした静的空間を同時に含め、人間の目なればこそ「ズーム画像6割・広角画像3割・超広角1割」で辛うじて追うことが出来るも、平面的な機械画像で、このファジー的な画像比率は表わせ得ぬ。近年ハイビジョンなるものが宣伝されているが、いかにシャープな画像が開発されようともダイナミックスは再現されまい。問題はシャープさではなくスクリーンの立体角なのだ。3つの異なる立体角を同時認識する人間の目に追付くなぞ十年早い望みだろう。でも、せめて凹型半球のスクリーンやスライドプロジェクター、写真紙ぐらいは開発してほしいところだが、考えてみれば、日本の狭い家にそんなものを置く場所はあるまい…。
 不可能な話はさておき、ダムに行こうと再三誘われた訳がよくわかる。出張先から歩いて5分のこのダムは、夏の雨継ぐ雨をそのまま受けて大々的に放流しており、その規模は6〜7年ぶりとか。濁流に家を流された人には気の毒だが、自然の力は大きいほどに…災害を起こすぐらい大きいほどに美しい。力は美なり(などと言うとまるでスポーツ関係者が米国軍のように思われそうだが)。

 今夏は本格的なダム放流をいうものを、初めて、しかも3度も見た。正確には「記憶として初めて認識した」と言うべきだろうが、ともかくダム放流に縁のあった夏で、全く、当たるときは当たる。
 ひとつ目は7月上旬のラップランド3国快速旅行(1泊目スェーデン、2泊目ノルーヱー、3泊目フィンランドで翌日昼に戻ってきた)の途中、ノルーヱーで見たもので、さすがノルーヱーらしく野性的な水流で、この種の迫力は日本では簡単には見られまい。ふたつ目は郷里宮崎の杉安ダムで、日本のアーチダムだけに放水すら見事な放物線で流れ、この種の計算し尽くされた造形美は逆に北欧にはなかろうと思われた。そして今回。場所はキルナとストックホルムの中間の港町・梅尾(じゃなかった、ウーミオ=ウメ川の河口)の上流10キロにあるセルフォーシュ村の大ノルフォーシュ・ダムである(セルは南、ノルは北を意味する)。実はこの村に研究所の梅尾支部があって、長年の念願が叶ってここに泊まり込みで研修(データ解析のお勉強)に来たのである。スタッフの1人だけが教授(65歳)で、残りはエンジニアとプログラマー。この教授が引退する前にその知識や技術を吸収しないと永遠に失われてしまうとの危機感から、この手の知識に好奇心の強い私に白羽の矢が立って、たまたま1ヶ月近い余裕が見つかったこの機会に3週間滞在することになった。行く前は若干不安もあったが、行ってみて正解だった。
 キルナの研究所(本部)はスタッフが総勢 70〜80 人おり、また建物の一角を占める併設の工科大学にもスタッフや学生がいて、常にざわざわしている。のみならず、研究所に十年も在籍するとそれだけで雑用だのしがらみだのが増えて、まとまった時間、研究に没頭できる状態ではなくなるつつある。一方、ここウーミオ支部の小さな2階建て一軒家には、僅か4人のスタッフがいるばかりで、雑務も人の出入り情報の出入りも全くなく、もちろん日本語からは完全に隔離され、しかも新鮮な自然現象と自然に囲まれている。これを極楽と言わなかったらバチが当たろう。かくて、5〜6年ぶりぐらいに100%研究に集中できる(といっても半分以上はプログラミングをしていたが)至福を味わった。
 それにしても、田舎の一軒家は住みやすい。なぜこんな場所に研究所かというと、実はここはもともと古いダムの事務所だったのを、ダムの拡張(古いダムを閉鎖し、新しく導水路を開いて、水の落差を1.5倍にした)に伴って事務所が移転し、古い事務所をこの教授に「発電効率を2%上げる導水方式の開発してくれたお礼」として、わずか十万円で研究所に譲ってくれたので、そのまま使用しているのである。建物は良し、環境は良し、ダム湖は近し、そんな具合のところだから、そこにベッドを持ち込んで泊り込めば、時間の無駄もなく、かつ朝晩毎日ダムを楽しむ余裕もあって、科学者はまさにかくあるべしとこそ思われる。

 こう余裕があると、ダム放流の美しさをじっくり楽しむ事が出来る。…この水流を見ながら、一体人間は何に「美」を感ずるのだろうかとしばし考えた。
 溜まる水が静なら、流れる水は動である。それが調和するとき人は美しいと思う。砂丘の風紋は、それ自体は確かに静だが、その模様は過去の動きを班ずる。水のさざ波は動いているものだが、その背後に静かな水面が必須となる。いずれもレギュラーなパターンが存在している。
 このいわば宗教的な美しさに対して、水には踊り狂う祭りのような美しさもある。神輿という大まかな枠だけは押さえられても、その非線形的な動きは予測がつかない。振幅にしろ、周期にしろ、全てが不規則だ。獅子舞は制御されつつもカオス的に振舞うから美しい。オーロラもしかり。全く予想のつかない動きは恐怖だが、それをぎりぎり除いた未知動は美の重要な要素らしい。とすれば、話は飛ぶが、かの金正日の外交だって近年稀に見る「美しさ」といえるのかも知れない(…まるで草枕の論理だ)。
 これだけ感動的な予測不可の動きともなると、いろいろ発見する事も多い。その一つが川風、もう一つが水煙。
 朝凪夕凪にダムに行くから、ダム湖の水面は細波すら立たず鏡のように平たいが、放流のところだけは水の流れの向きに風が吹いている。所謂渓風というやつだ。水の勢いが勢いだけに風も強い。
 …ん? 中学高校で習う山風谷風の原理と違うではないか??
 教科書によれば『昼は山がより日射を浴びるから谷から風が吹き上がり、夜は山が放射冷却で冷えるから山から谷に風が降りる』とある。冗談じゃない。この風は明らかに水の流れに空気が動かされて吹き続けている。念のために、秋風の通る昼休みに何度か行ってみたが、湖面の風向きによらず、放水のところでは常に上流から下流へと風が吹いていた。学校で習う山風谷風の原理は全く成り立たない。
 考えてみれば、あの山風谷風の原理はあくまで「理論」であって、実際にデータで確認された科学的知識ではない。少なくとも私にはそうだ。今までに一度も山風谷風の科学的データを見たことはないし、それは理科の教科書にもない。もちろん言葉がある以上、山風や谷風はきっと存在はするのだろう。だが、それに温度差の原理が成り立つかどうかは別の話、たとい成り立つ事があったにせよ、それは特殊な地形に限られよう。しかしながら、そのような但し書きはどこにもない。とすれば、中学高校の理科社会での説明は「小数の特例を以て普遍であるかの如く言いくるめる」類の嘘である。この種の嘘は政治家だけの特権ではなかったのか!
 こうなると「温度差による風」という項目は全部洗い直す必要があろう。例えば海風陸風の関係だが、これは日本の夏では成り立っても、他の季節には成り立たないし(宮崎では冬は早朝の凪ぎのあと、昼に強い西風(陸風)が吹く【*1】)、ラップランドでは季節によらず成り立たないから(風向きに拘らず、冬は夜風が吹いて、夏は昼風が吹く)、誰もが知っている海風陸風の理論すら非常に限られた条件でしか成り立たないのだ。もっとも、これほど知れ渡った現象になると、さすがに「限られた条件」の但し書きを知っている理科の先生もいるが、それはごく小数であって、教科書に至っては明らかに「普遍あるかの如き」誤解を招く記述である。
 いや、ものは考えようで、このような記述に限って長年教科書検定に合格している事実は、実は「普遍的原理であるかのように書かれた説明であっても、大抵は極めて限られた条件でしか成り立たない」「小数の特例をもって普遍であるかの如く言いくるめるのか世の中だ」という事を、身を持って体験して貰おうという文部省の深慮遠謀なのかも知れない……文部省って「かしこい」からなあ。
 疑い出せばきりがない。例えば「海流の生成」。中学の教科書では「貿易風」「偏西風」が海流を起こすと書いている。中学ばかりでない。海洋学者はいざ知らず、少なくとも大学で地球物理をとったような人間ですら信じている。要するに「常識」となっているわけだ。でも、おかしくはないか?
 密度の低い空気が密度の高い水を動かす…そこが引っかかる。季節毎に大きく変化する風が極めて安定した海流を作る…そこも引っかかる。原理的にはいずれも可能だ。だが、これらの理論は検証されたのか?
 答えはノーである。この問題を定式化するとこうなる:
『もしも地球に空気がなかったとしたら海流は起こらないのか?』
 実はこの問題には気象学の「回転水槽実験」で既に答えが出ている。太陽熱で温められた赤道の水は、その熱を北極南極に運ぶべく対流を始め、それに地球の自転の影響が加わると、実際に観測されている風と同じパターンの流れを準安定的に作る、と。何の事はない、最後の「風」を「海流」に戻せば良いのだ。風があってもなくても海流は起こる…しかも観測されている通りに!
 問題は、この原理が実際の海流の何パーセントを作っているのか、と云うこと。それが5割を越えていたら、もはや「海流は貿易風や偏西風で出来る」とは言えないのだ。それどころか、もしかすると100%を越えているかもしれない…つまり、海流が風向きをコントロールしているのかも。上の2つの疑問からして、こっちの方が自然ではないか。少なくとも海流は風と無関係に起こっているように思われる。
 念のために「風が原因」という根拠もチェックすべきだろう。例えば海流が表面から浅い部分だけで起きている事がそのひとつに挙げられているが、何のことはない、太陽光の届く浅さじゃないと「回転水槽」の成果は使えないのだから、これはむしろ「水が原因」の根拠にすらなる。私は海洋学は勉強していないから「風が海流を作る」理論の根拠を全ては知らないが、少なくとも大学の教養で教わる程度の論拠についてはどれも「証拠とは言いがたい」と言い切れよう。ましてや学校教育で使われている「証拠」「論拠」の脆さだけは言明できる。…いや、これだって「証拠というものは信用してはいけない」という事を学んで貰おうという文部省の親心かもしれない…。はあ…
 もちろん、学校で習う理論の全てにいちいち成立条件を書き出していては煩雑になる。だから「分かり易さ」の為に各種の前提条件を省略するのは実生活のみならず科学研究でもよくやることだ。そのくらい大胆なほうが研究が進むというのも事実であろう。だが、たまには現実に戻らなくてはなるまい。「分かり易い」応用理論は、それが分かり易いほど、実は色々な前提が省略されていると疑うべし。少なくとも理科教育にそのような「検証」過程を入れないと、温度風の例のように理科はもはや「理」を教える教育ではなく、暗記だけの科目、「教育」という言葉に相応しくない何かに成り下がってしまう。

 話は変わって水煙。これだって水の勢いに流される。そして流れに沿って層を成しながら昇っていく。たしかに美しい。…が、問題はその層の向きだ。気付いて愕然とした。
 水にしろ空気にしろ向きのはっきりした強い流れがある場合、そこに墨だの煙だの不純物を一点から入れてやると、流れに沿って不純物が層状に模様を作る。逆に層状の気体流体があったら、それは層に沿ってなんらかの流れ(あるいは相互作用)があったと考えるのが普通だ。例えば成層圏はその成因は重い物が下、軽いものが上という原理によるが、それだけでは水平方向に層にはならない。左上に重いものがあって右下に軽いものがあったときに、左から右への流れ(空気の交換)が生じるから最終的に層状になるのである。実際、成層圏の風を測ると水平方向が垂直方向より強い。
 ましては、今発生している水煙は川風に流されているのである。当然、層も流れに沿ったものになると予想される。ところが、斜めに立ち上る水煙を見ると、その層は立ち上る方向(即ち川風の方向)にほぼ垂直なのだ。あまりの意外にしばし見とれた。
 説明は簡単で、一種の音波(空気でなく水煙の音波)が発生して、それによって水煙に疎密が生まれたのだが、目の当りにすると、やはり「不思議」にしか思えない。
 この応用は広い。音波によって水煙が層状になるのなら、大気上空の、例えば雲の中、あるいは成層圏の微量成分(フロンの成れの果てとか)でも同様の事が起こっているかも知れない。ただし、現在の成層圏科学や気象学ではこのメカニズムは全然検討されていないようだ。科学の可能性の深さたるやきりがない。

 ダムの流れに感動した一つの理由はその不規則な動きにある。不規則とは非線形の代理人であり、非線形というからには、水量が僅かに変わるだけでも様相が一変する。ウーミオ到着以来晴天が続いたら、数日にして迫力がめっきり落ち、翌週にはごく普通のダム放水に変じてしまった。
 美人薄命なるや。吁嗟!

2000年8月「ウーミオのダム開放」 山内正敏
【*1】大学レベルの気象学の本によると、冬の季節風が(太平洋側では)昼にしか吹かないのは、雲や雪に覆われている山間部や日本海側に比べて、太平洋側は日照/放射冷却の効果が大きく、いわゆる山谷風と逆向きの風(昼は山から平野へ)が吹くからだそうで、空っ風という項目で説明されている。積雪のあるなしの境界で吹く風は、春の雪融けの際にも見られ、特に北極圏のように日照の長いところでは、境界の積雪側(雪融けが真っ最中の所)が定常的に高気圧になる。