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重症ギランバレー
発病→緊急入院→人工呼吸→自力呼吸(計3ヶ月間)の記録
2001.10 ~ 2002.02

1.  2001年10月 入院まで
2.  2001年10月31日〜11月23日(3週間) ウーミオ大学病院集中治療室
3.  2001年11月23日〜12月7日(2週間) 県立スンドビン(Sunderbyn)病院集中治療室
4.  2001年12月7日〜 県立キルナ病院集中治療室

5. : 投薬その他

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病名:ギラン・バレー症候群(GBS)
タイプ:急性・脱髄・軸索障害併発型
障害:運動神経全般、自律神経の一部、感覚神経一部
直接原因:カンプロ菌感染に対する過剰免疫反応による神経障害(自爆)
根本原因:女難(既婚だったら九分九厘この病気に罹らなかった)
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1.  2001年10月 入院まで

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 10月19日(金)丹沢に登る。このとき飲んだ山水が原因だと思われる
 10月20日(土)長野県野辺山に行く(ハイキングと見学を兼ねる)
 10月21日(日)ちょっとだるいが京都へ。夜、急激な悪寒と下痢と腹痛。
  * この日に京都に行かず東京に戻って休めば、GBS にかからなかった可能性が高い。
    しかし、見合い相手の両親に紹介される日とあっては、キャンセルはありえない。
 10月22日(月)無理して東京に戻り、無理して夜に人に会う(=女難から逃れようとして…)。
  * この日にしっかり休んでおれば、GBS も軽度で済んでいたと可能性が高い。
    しかし、体調の悪い時は判断力が鈍る(女難がより怖かった)から、キャンセル出来ず
 10月23日(火)成田からアムステルダム経由でキルナに戻る。飛行機はガラガラ。寝て帰れた。
 10月24日(水)悪寒と腹痛は治まるが下痢は続く。
 10月27日(土)下痢おさまる。
 10月28日(日)ランニングをしたが非常に体調が悪い。再び悪寒。

 10月29日(月)
朝: 体が異常にだるいので病院に行く。午前中、地域看護師(医者に会う前に看護師に相談するのが正式手続き)に会うが、下痢がらみなら医者に会ったほうが良いということで、医者を午後に予約する。医者の検査でははっきり分からず、血液検査でも抗体反応がないので、原因不明で単なる風邪だろうということで家に帰る。カラダがあまりにも重いので、タクシー使用(午前中は自力で帰る)。

夜: 何度もおしっこに行きたくなるので普通に眠れない。しかしおしっこはほとんど出ない。考えてみたら日曜日からほとんど出ていない。

 10月30日(火)
昼: 相変わらず何度もトイレに行きたくなる。歩くのがだんだんつらくなる。床(ゆか)から立ち上がることができなくなったのでベッドに横になってすわった状態からやっと立つことができる。ものが二重に見え始め、焦点をあわせることができない。但し非常に困る程の複視ではない。
医者に会わなければならないと思うが、タイミングが難しい(かなり重度にならないと単なる風邪で済まされる可能性が高いから)。とにかく、今日は絶対に「単なる風邪でしょう」とか何とか言われて追返されたくない(身の危険を感じた)ので、医者が明らかに大変だと思う状況になるまで待つ。

午後2時ごろ: まっすぐに歩けなくなって両手で膝を支えながら歩く。救急隊員がいつでも入ってこられるように、アパートの入り口ドアのカギを開ける。身体が動かなく救急で運ばれるようだったら、さすがに医者も単なる風邪とは言えない筈だから、救急で運ばれるのが理想的で、それを想定した。一方、病院に電話をして昨日の医者に話をしようとするが、電話診察の時間外だということでつながらない。

午後3時ごろ: 同僚から電話があって、明日の(別の同僚の)誕生日のお祝の相談があるが、体調が悪いからと言って不参加表明。

午後4時ごろ: そろそろ救急を呼ぶ必要があるな、と思ってズボンを穿こうとしたらバランスがくずれて倒れて起き上がれない。四つん這いにすらなれないので、床にペタっと腹這いになったまま。這うようにして電話にたどりつく。5分かかったか10分かかったか覚えていないが、とにかく苦労したのは事実で、これがあと1時間後だったら電話に辿り着く事すら出来なかったかも知れない。
やっとたどりつい電話で112(日本の110番と119番を合わせた番号)をダイヤルする。救急車が来る事になったので姉に電話して(日本時間の深夜0時過ぎだったのでびっくりしたみたい)、「体がだんだん動かなくなったから救急車を呼んだ」と伝える。
10分以内に救急隊員3人が来て、取りあえず椅子に座らせてもらい、コートを来て、財布と鍵だけ持って、隊員の一人の肩に縋ってアパートを出るエレベーターで下に降り、階段数段をやっと降りて救急車の座席に座る。玄関からの3段の石段が極めて困難だった。

午後4時半ごろ: 病院到着。すぐにベッドに寝かされるが、救急隊員は靴を履かせてくれたくせに病院に着いたあと靴を脱がせてくれなかった。といって自力で靴を脱がす事は出来ない。というのも、もはや自力で座ること(起き上がる)事が出来ないから。足の曲げ伸ばしだけは何とか出来る。

午後5時ごろ: 30分程で医者がやってきて、ベッドでは靴を掃くものじゃ無いよ、と言いながら脱がせてくれる。この時、身体が動かないと言ったが全く認識しなかったみたいで、下痢の話をしたら、直ぐにお腹を触って、膀胱の膨らんでいるのを認めて、代わりに出てきた看護婦が尿管を入れて尿を取り出したら、2L以上出てきた。
看護婦を呼ぶ呼びボタンを設置して貰うが、指で押す力がない。もしも自宅だったら、電話すら出来ない事を意味する。複視が激しくなり、すべてのものが二重に見えて、何かを見るのも辛くなる。

午後5時半〜6時ごろ: 再び医者がやってきて、笑いながらこれで帰れるねなどと言うものだから(はじめは冗談かと思った)、身体が動かないと再び答えたら、やっと事態に気がついたらしく、驚いたように、握手から始めて軽く検査して、脱力症状をやっと認識してくれた。どうやら、この時までは医者は入院の必要すら無いと考えていたフシがある。救急車で運ばれるまで待ったのは正解だったみたい。

まもなく同じ医者が採血器を持ってきて骨髄液を採取(痛い)。骨髄液を調べるということはギランバレーの症状の疑いが強いことを意味しているが、こっちには何も説明なし。それでも非常に安心したのは、ほったらかしにされないという事がわかった為なのと、病名がある程度診断されている事が分かった(診断がないと検査方法が決まらない)から。

再び医者がやってきて(同じ医者だったか別の医者=院長だったか覚えていない)、600km 南のウーミオ大学病院と連絡を取っているとの話を聞く。明日にもウーミオ大学病院に送られることになるだろうとのこと。キルナで一番心配なのは、医者が病気のことを何も知らないのではないかということだから、これは大きな朗報。
前後して連絡先を聞いてきたので(緊急入院が決まると、その段階で家族・親戚等の連絡先を尋ねる事になっているらしい)、スウェーデンに親戚のいない事から、同僚の名前を2つ上げたら、2人目 I.S. は医者が良く知っている人だったので、その人に連絡が行く。

午後7時ごろ: 救急部門から集中治療室のほうに移される。医者が交代。この日の医者の平均滞在時間は骨髄液採取を除いて約1分。
 
午後7時半〜8時ごろ: ウーミオ大学と連絡を取った結果、ウーミオ大学が至急送れと指示し、今夜中にウーミオに行くことになった。ヘリコプターはエリバレにあるので飛んで来るのを待つ。予定では夜9時に迎えに来ることになっている。しかし、悪天候(雪嵐)の為。ヘリコプター飛べず、いつまでも待たされる。前後して同僚 I.S. から電話があって見舞いの必要があるかどうか聞いてくるが、この段階で、同僚と口を利けるのがこれが最後だとは思わなかったので、必要ないと答える。この段階で僕が病気で入院している事を知っているのは、この同僚と日本の姉だけ。
 
午後夜10時ごろ: 悪天候の為、とうとうヘリコプターが飛べず、ウーミオ行きは翌日に変更になる。
呼吸の力の検査があったが、自覚症状としては異常を感じず。結果も教えて貰えず。
起き上がる事が出来ないので、水は看護婦がストローで飲ませてくれる。足を伸ばす事はできるが、もはや曲げることはできない。

 10月31日(水)
朝9時ぐらいにヘリコプターが来る。ヘリコプターに乗る前に呼吸の力のチェックをして呼吸器が非常に弱っていることが判明。言語障害が始まる。ろれつがまわらない。ベッドの背もたれを立ててベッドの上に座らせて貰う。
ヘリコプターの操縦士から目がくらまないように麻酔を打つといわれて麻酔を打ってもらう(実際は呼吸器挿入の為だったらしい)。看護婦に『これで寝たらもうしゃべれないかもしれないので今のうちにしゃべることをしゃべっておく』と言ったが、何をしゃべったかについては覚えていない。たしか、看護婦に『今のうちに聞くことがあったら聞いてくれ』と言って、結局何もきかれなかったように思う。直後に麻酔が効きはじめてそれからは記憶がない。

 この直後から、全身麻痺+人工呼吸が数ヶ月続くとは予想だに出来ず。


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2.  2001年10月31日〜11月23日(3週間)ウーミオ大学病院集中治療室のまとめ。

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麻酔からはじめて目が醒めた段階(11月4日)の全身麻痺の状態

*かすかに(ゆっくりながらも)動くのは、まばたき と あご と 左足親指 のみ。
*喉切開式の人工呼吸。
*便も出ない。
*全てが緑のフィルターがかかって二重に見える(複視)。例えば白い天井が緑(黄緑ではない緑で薄い緑)に見え、激しい複視のために、何かを見ると言う事が出来ない。眼球もわずかしか動かない。
*聴力(特に低周波の言葉)も半分ぐらいに落ちているので、質問が聞こえない事もある。高めの声で、しかもゆっくり喋ってもらわないと分からない。但し、音楽は正常に聞こえるみたい(この点はよく分からないが)。
*運動神経麻痺のせいか、かゆみは感じない(これで痒かったら大変)。

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介護体勢:大部屋

毎日:
 朝、 担当看護(看護+准看護のペア)の挨拶があって、
    その後、体拭き+シャツ替え+歯磨き+薬(鼻)+肺拡張剤。
 午後、担当看護の挨拶があって、その後、薬(鼻)+肺拡張剤。
 夜、 体拭き+歯磨き+睡眠薬。
    (これらは午後担当がやることもあれば夜勤担当がやることもある)。
 リハビリは平日の昼に1時間ずつ。

数日に1度:
 体重計測(ウーミオにいるうちに 60kg をあっさり割り込んだ)が計4〜6回、これは夜。
 レントゲン

 3週間で風呂が1回だけ、シャワーはなし。
 爪は1度も切ってくれず。
 正看・准看は4分の1ぐらいが男性。

2003年6月の ICU訪問の時に分かった事:
 入院以来ベッドは移っていない。
 ましてやエレベーターなど使っていない。
 端の6人部屋の端のベッド
 6つのベッドは壁ぞいに並べられて、耳を頼りにした記憶の配置(窓の反対側が看護婦控え室で、その間の廊下が頭側に続き、頭の向こうは壁で(正しい)、足の方にもう一つカーテン越しにベッドがあって(正しい)、その向こうにも2個程ベッドがある)と全然違う。
 IVA は研修看護は取らない。だから研修と思っていたのは単なる准看護の勘違いらしい。
 髭剃りや入浴やポスター貼りをしてくれたのは Per という看護師。

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日誌1:麻酔による幻覚期(記憶と事実が異なる)

 10月31日(水) 麻酔で眠りっ放し。全身麻痺の人工呼吸。入院の事が瞬く間に研究所はおろか、日本の火星プロジェクト関係者に伝わる。
 11月1日(木) 麻酔で眠りっ放し。1回目の EMG テスト(神経伝導度測定)は、末梢神経の脱髄を示す。1回目の Plasma Exchange 2500ml(血漿交換、透過血液量は約5リットル)、はじめ2重濾過を試したが上手く行かないので単純血漿交換になる。
 11月2日(金) 麻酔で眠りっ放し。午後、 仕事場の所長 RL. が訪問するが麻薬でまだ寝ている。
 11月3日(土) 麻酔で眠りっ放し。午後、気管切開手術。肺に phlegm がある為、麻薬でまだ寝ている。2回目の Plasma Exchange 2500ml(単純血漿交換、透過血液量は約5リットル)。医者から親戚の神経内科医に連絡あり。
 11月4日(日) 殆ど寝ていた為、殆ど記憶なし。 午前、記録上は4日ぶりに麻酔からようやく目が覚めるが直ぐに寝る(何度か目を覚ます)。目のまばたきで意思表示。血液検査では軽い pneumonia=肺炎(にすらなっていないけど)なので抗生物質が与えられている。今週の担当医師から姉にEmailの連絡有り。 夕方、RL. が訪問して、僕もそれに気が付いているとの事。彼が医師と長い会話。
 11月5日(月) 記憶混乱。 この日の段階で動くのは瞼と顎が少し。前日より疲れているのか瞼の動きが鈍くなっている。同僚の LE. が訪問し、その後に3回目の Plasma Exchange 2500ml(単純血漿交換、透過血液量は約5リットル)で、記憶の上では初めての血漿交換だが、寝ているうちに何度かやっているらしい。この時は全身が踊るような感じがする(操り人形みたいな感じで全身が勝手に踊るように感じる)。プラズマの説明図が見えるが視力がないので良く分からないが R.L. が同席して「これはすばらしい、プラズマこそわれわれがやっていることなんだ」と言っていたのは確か。そうして、nesta onsdag (次の水曜日)に会いましょうと言って技師が帰っていった。

[この間の記憶と幻覚]
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問題点

 *問題点1:情報不足  病気に関する情報、並びに治療に関する情報をきちんと貰わなかったので(副作用を強調された)、治療への不安が大きく、結果的にIVIgを1クルーで止めてしまう結果になった。一般論として、IVIg の2クルー目は1ヶ月空けるのが常識だが、私の心臓が強い事から、担当医師は継続する事を考えていたらしい。いずれにせよ、こっちが本当に欲しい情報(詳しい説明)が何も入ってこなかったのは事実で、これは、こっちの聴力が衰えている事を医師が十分に認識していなかったせいもあるが、それ以前に、僕がきちんとした説明を好む事を、同僚が医師に伝えていなかった不手際がある。

 *問題点2:言語の壁  ont (普段健康だったので、この言葉は語彙に入っていなかった)の意味が分からず、身体の勝手の悪い時に色々尋ねられた挙げ句に ont かと聞かれて面倒なので目を瞬きしたら、痛いという意味に取られて(本当は痛く無いのに)、痛み止めの量を増やされた。これは、R.L. (ウーミオ大学病院に一番早く見舞いに行った人間)が、慌てふためいた故に、僕とのコンタクトはスウェーデン語で良い言った為で、医師ですら、英語よりもスウェーデン語の方が通じると解釈した者がいる。

 *問題点3:不十分な事前連絡 覚悟のない状態で意思疎通が出来なくなったので、2週間以内に処理しなければならない緊急の懸案事項(引っ越し+論文改訂+寄付の礼状)を同僚や姉に伝える事が出来なかった。

 *問題点4:意思疎通手段 唯一の意思表示手段のマバタキの機能が次第に悪化していき、力を込めないと出来ないようになって、yes と no を取り違えられる事があったが、この機能悪化が認識されなかった。

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日誌2:覚醒期(記憶と事実が一致)

 11月6日(火) 朝、11月6日です、と言われて混乱する。13日だと思っていたから、どこかで1週間ずれている=どこかが幻覚である筈と云う事になり愕然とした。この日までに既に KP=関節柔軟は始まっており、「まばたき」意思表示法(2回が no)を使っている。RL. が訪問し(前夜だったかも知れない)、嬉々として du ar framot(おまえ回復しはじめたんだってな)と言う。この言葉で医者から見てもヤマは超えたことがはっきりした。自分でも前日(記憶の上では前々日)から回復していると感じている。
 11月7日(水) 4回目の Plasma Exchange 2500ml(単純血漿交換、透過血液量は約5リットル)。効果が見えないので IVIG 投与に変更、この日からIVIG(30g) +ステロイド(Solu-Medrol 0.5mg)併用5日間。
 11月8日(木) 2回目の EMG テスト(神経伝導度測定)、軸索障害の徴候あり。軸索障害の進行中にもかかわらず、柔軟体操の時の腕バランス訓練でバランスの徴候あり。これは明らかに反応が最適化して筋肉側の電位敷居値が下がった為だが、PT や看護師はそんな事は知らないから、これをもって回復の徴候と勘違いする。
 11月9日(金) 頭を若干横に振る事が出来る。
 11月11日(日) IVIGは5日間で終了。日光が暑いのでシャツを取って貰ったら、そのあと寒くなっても放っとかれて、とうとう夜の風呂の後39度の熱が出る。
 11月12日(月) テレビを見ようとするが、目が動かないのと複視で諦める。
 11月13日(火) ようやく姉到着。夜、呼吸器の管を完全強制型から自由型に取り替える。医者から姉への説明によると『既に血漿交換とグロブリンの投与の治療がなされており、これ以上の特別な治療は必要ない』との事。かすかに頷く事が出来る。表情は無し。自律神経にも問題が出てきたらしく、汗をかく。
   疑問:本当はIVIGをもう1回(5日間)やるべきだったのではないか? 常識では1ヶ月空けるものだが、僕の場合はどうだったのか?
 夕方(この日か、その翌日)、呼吸器の管を完全強制型から自由型に取り替えて、呼吸訓練の出来るタイプ(勿論呼吸は今は無理だが)になったらしいが、その交換の為に空気の量を思い切り減らす事を1ー2時間程続け、その際に正規の血圧も5分おきに測り、それが終った時に管を取り替えた。で、この夜はそれに関連して薬を大量に投与され、強烈に夢と分かる夢を見る。
 11月17日(土) 自律神経障害が悪化。
 11月20日(火) 3回目の EMG テスト(神経伝導度測定)、運動神経の完全な消失を示す。
 11月21日(水) 姉帰る。呼吸訓練と称して看護婦が間違えて酸素供給量を減らしたので恐ろしく苦しくなる。後で「そんなことをやってはいけない」と看護婦が医者にたしなめられていた。
 11月22日(木) MRI の検査で、中枢神経には異常が無い事が分る。
 11月23日(金) 午後、ルーリオ市にある、県立 Sunderbyn 病院に移る。

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両時期を通じてのまとめ

*酸素不足で息が苦しい。酸素は十分に送られているが肺胞が酸素を交換する能力がないらしくて息が苦しくなる。肺拡張剤をやっているときは特に酸素の量が減るので特に息が苦しくなる。息苦しくなると(肺拡張剤の時など)、機械が警告音をキーカーコーキーカーコーと鳴らし続けるが(しかも血圧、心泊数ともに増える)、警告音がなっても1分ぐらい放っておかれる(キルナやソンドビュンの様な個人つきっきりの准看護はいない)。ただし、これは姉が来たあたりから改善しはじめる。
*代わりに自律神経障害が酷くなって、ひどく汗をかくかと思えば、すぐに悪寒を覚える。血圧も乱高下する(呼吸器に取り付けた簡易メーターだと200を超える)。
*あくびをしたいのにあくびができなくて涙ばかり出てくる。
*喉がやたらに乾く。その度ごとに、7月の山歩き2日目の湖のほとりの昼食で水に囲まれた時の安らぎを思い出す。コップにすくって飲む水の事ばかり想う。
*唯一の意思表示手段のマバタキの機能が次第に悪化していき、力を込めないと出来ないようになって、yes と no を取り違えられる事がある。
*ウメオでは寝返りは3、4時間に一度しかやってくれない。横向きに何時間も寝ていると、足の間にクッションを挟んでいても上の足の骨が下の足に食い込んで痛い。仰向けが一番楽。横寝では腰も痛くなる。
*歯磨きはゆすぎ次第で歯磨き粉が残って気持ち悪い。歯磨き粉が残るのは歯ブラシに水をつけるやりかた。比較的きれいになるのは大きな注射管で水を注入して吸引(Suga)するもの。
*1度間違って睡眠薬を2度投与された事があり、その翌日から寝つきが悪くなった。
*病名を初めて聞いたのが、遅くに訪問したイングリッドからだったと思う。それまでは、病名はもちろん、ちゃんとした治療法があるという事も知らなかった。そういう意味(情報伝達)では、姉の来るのがあと1週間早ければ良かったのにとは思う。
*持病の腰痛と持病の右膝関節炎については伝えるすべが無い。
*痛みと言うと内科的な痛みと誤解されるから、そうでない機械的痛み(足が食い込むような痛み)を伝えるすべが無い。
*体重は2日に1kgのペースで落ち続ける。
*体温は常に38度近い。
*喉の渇きが激しく、空腹どころではない。

*結局、部屋の様子は分らずじまい。

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Sunderbyn に転院した段階の状態(11月23日)

*脈拍約70/分、血圧上140〜150 下80、呼吸器は BIPAP PEEP +5 で酸素レベル 30%、体温 37.5度。
*全てが緑のフィルターがかかって二重に見える(複視)。例えば白い天井が緑(黄緑ではない緑で薄い緑)に見え、激しい複視のために、何かを見ると言う事が出来ない。テレビも駄目。眼球も上下にわずかしか動かないが、それでもちょっとだけ回復。
*聴力(特に低周波の言葉)も半分ぐらいに落ちているので、質問が聞こえない事もある。高めの声で、しかもゆっくり喋ってもらわないと分からない。但し、音楽は正常に聞こえるみたい(この点はよく分からないが)。
*運動神経麻痺のせいか、かゆみは感じない(これで痒かったら大変)。
*唯一の意思表示手段であったまばたきは次第に悪化して、一生懸命力を入れてやっと目を閉じることができる程度。故に no の意思表示が困難となり、代わりに首降りでするようになったが、これも枕の位置によっては全く出来ないので、no を告げる事が不可能な事(それで yes と判断される事)が頻繁になる。
*かすかに首を横に振れるようになる(枕の位置によっては全く出来ない)。とはいえ、最後まで部屋のごく一部(天井)しか視野に入らない。この首振りが本当の回復なのか、反応が最適化して必要な電位敷居値が下がった為なのかは分からない
*意思伝達は yes は瞬き、no は枕の位置によっては首降り、枕の位置によっては2回瞬き。
*両足の親指が、曲げる方向に微かに動く(回復では無く生き残り:反応が最適化して必要な電位敷居値が下がったのだろう)。
*右手の親指第3関節が、ごくたまに微かに動く(回復では無く生き残り:反応が最適化して必要な電位敷居値が下がったのだろう)。
*顎(動きは良くなって来ているが、まだ舌を歯の間に格納することは出来ない、それでも歯磨きが少しだけ楽になる:本当の回復なのか、反応が最適化して必要な電位敷居値が下がった為なのかは分からない)。
*喉(微か:本当の回復なのか、反応が最適化して必要な電位敷居値が下がった為なのかは分からない)。
*他に動くところは無い。
*動かないにしても筋肉が反応し始めているところは上腕の肘を伸ばす方向(そこのみ)。
*完全な便秘だったのが、一応は便が通じるようになる。


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3.  2001年11月23日〜12月7日(2週間)県立スンドビン(Sunderbyn)病院集中治療室のまとめ。
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介護体勢:個室

毎日:
 朝、 担当看護(看護+准看護のペア)の挨拶があって、
    その後、体拭き+歯磨き+薬(鼻)+肺拡張剤。真っ裸。
 午後、担当看護の挨拶があって、肺拡張剤。
 夜、 体拭き+歯磨き+薬(鼻)+睡眠薬。

医師巡回: 1日1〜2回。

数日に1度:
 レントゲン

 シャワーを週に2〜3回。
 爪は1度だけ切る。
 体重計測の出来るベッド。
 正看・准看は全部女性

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その他、ウーミオとの治療体勢の違い

(1)Umea の記憶が生々しすぎる反動で Sunderbyn のことはほとんど覚えていない。
(2)リハビリは極めて悪い。お座なりの柔軟運動(KP=kontraktur profylax)を1日5〜10分するだけで、ウーミオでの成果が完全に無に帰し、手に至っては全く何もせずに、固定器を着けたのみで、そのためにくるぶしが固まってしまった。
(5)看護婦の座るところが遠い上に、時々全然こっちを見ない(座っているだけ)の看護婦がいて、呼んでも全然反応しない事がある。良い看護婦はとっても良いのだけど。
(6)Sunderbyn では真っ裸で寝かせるので、肩とおなかが寒くてしかたがない。昼も夜も何も着せてくれない。
(7)1週間目あたりに看護婦さんの一人が質問表をつくる。それで非常に助かる。
(8)ウメオでは寝返りは3、4時間に一度しかやってくれなかったが Sunderbyn では1、2時間に一度やってくれる。横向きに寝ると、30分を過ぎたあたりから上の足の骨が下の足の骨に食い込んで痛い。腰も痛くなる。足の間にクッションを挟んでも足は食い込む。筋肉を失ったので Umea の頃よりも短い時間で痛くなるのだろうと思われる。仰向けが一番楽。ウーミオでもそうだが、この種の機械的痛みの説明が難しい(痛みと言うと内科的な痛みと誤解されるから)。
(9)ウメオでは3週間で風呂1回だけだったが、Sunderbyn では3日に一度シャワーを浴びさせてくれる。でもシャワーで背中を洗うときに横向きになるから痛い。
(10)12月になってはじめて爪を切ってくれた。爪切りは発病以来クリスマスまでの2ヶ月間でこの1回だけ。ウーミオの頃から、足を動かす際に、足爪を剥がす方向に動かされたり、刺さったりして、切ってもらいたくてしょうがなかった。

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日誌

 11月29日 木曜 この日までに嚥下能力の徴候が見えている。
 12月2日 日曜 枕をはずしたら首を大きく横にふれるようになった。縦は全く振ることができない。他に動くのは足の指のみ。
 12月5日 水曜 自発呼吸の練習(機械からの圧力を減らして、残りを自力で吸引)をはじめる、30分程。

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Kiruna に転院した段階(12月7日)の状態。

*ゆっくりまばたきをする:一生懸命力を入れてやっと目を閉じることができる。
*首を横に振る。
*Kiruna では no の首振りはわかるが yes の瞬きはよくわからないと言われる。
*足の指を曲げる(左ほとんど全部と右親指)。
*右手の親指をかすかに動かす。
*口の中をぱくぱくと開ける。唇をあける力はない。(歯磨きが楽になる)
*文字を読む。ただしハガキ1枚読むこともできない。

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この2週間の進展

*首の横振りが安定して出来るようになる。
*より多くの足の指を曲げる(左ほとんど全部と右親指)。
*右手の親指をかすかに動かす(全く時々だがウーミオの時より少しまし)。
*口の中をぱくぱくと開ける。唇をあける力はないが、それでも歯磨きが少し楽になる。
*呼吸器で負荷を若干入れる訓練を最後の数日だけする。

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この2週間の停滞

*まばたきは進展無し:一生懸命力を入れてやっと目を閉じることができる(だから、Kiruna では no の首振りはわかるが yes の瞬きはよくわからないと言われる)。
*視覚は相変わらず緑のフィルターがかかっていて、白い天井も緑に見える。黄緑ではない緑で薄い緑。しかも複視で二重に見える。緑が段々薄くなったのはキルナに着いてから。複視はもっと続く。
*文字を読んでみるが、複視でハガキ1枚読むこともできない。
*聴力も相変わらず悪く、聞き取りづらい。

*移動が万全で無かったせいか肺炎が始まる。胸がガラガラ言い出したのは Sunderbyn に着いてからで、ウーミオの頃は肺炎にならなかった。結局3度、医者に痰を取ってもらう。その間は麻酔で全く覚えていない。看護婦による痰の吸引はさほど多く無い(ただし、この段階では、痰が絡むいやな感じは感じない)。
*肺炎の他に血圧降下剤にも問題があって、(副作用と思うが)注射の度に心臓の鼓動が弱くなって心泊数が上がり眠れない。一度なんか極端に鼓動が細かくなって気持ち悪かった。
*便秘の問題が深刻になって、便が肛門手前で固まってしまい、数日に渡って色々挑戦した挙げ句、12月4ー6日のどこかで解決。
*体重は落ち続けるが、落ちる速度は鈍化。
*体温が37度台(平熱より1度以上高いがウーミオの時より低い)。
*相変わらず喉の渇きが激しく、空腹を忘れてしまう。。
*相変わらずかゆみは感じない(これで痒かったら大変)。
*睡眠薬の効きが段々悪くなって、段々不眠気味になる。
*持病の腰痛と持病の右膝関節炎については伝えるすべが無い。
*体を洗う為に水を洗面器に入れる音(蛇口の水の音)がし始めると嬉しくなる。

*転出時の体重 53.5 kg。脈拍約80/分、血圧上160 下85 だが、時折 180-200 に上昇、その度に catapressen を余分に 0.075mg 投与。
*転出時の呼吸器は ASB で、夜は TK モード、昼は TU モード、酸素レベル 30-35%、周波数14、容量600ml。


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4.  2001年12月7日〜 県立キルナ病院集中治療室のまとめ:


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介護体勢:個室

毎日:
 朝、 担当看護(看護+准看護のペア)の挨拶があって、
    その後、体拭き+歯磨き+シャツ替え+薬(鼻)+肺拡張剤。
 午後、担当看護の挨拶があって、肺拡張剤。
 夜、 体拭き+歯磨き+薬(鼻)+睡眠薬。

医師巡回: 1日1〜2回。

数日に1度:
 レントゲン
 体重計測

 シャワーは簡易呼吸器が来たあとに週に2〜3回。
 爪は切らず。
 正看・准看は全部女性(一人だけ研修中の男性が加わる)。

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2001年12月の日誌

 12月14日 金曜 IVIg の一種であるガンマガード(Gammagard 0.4g/kg/day)x5日間を開始。
 12月18日 火曜 ガンマガード(Gammagard 0.4g/kg/day)終了。体重 52kg。プロビーバを 100cc ほど口から飲む。午後頭痛+熱(38.6度)+汗。
 12月19日 水曜 2週間振りの自発呼吸の練習(機械からの圧力を減らして、残りを自力で吸引)。
 12月21日 金曜 ミネラル水を飲む(これが一番!)。
 12月23日 日曜 点滴型の睡眠薬開始。
 12月24日 祭日月曜 肺炎気味(平熱)なので抗生物質を点滴する(3日間)。
 12月27日 木曜 抗生物質の強いものが投与される。
 12月28日 金曜 痰が沢山出てしまうため水以外は何も飲めない(肺炎の薬は痰を出す)。前日に比べ肩が前後や上下にかなり動くようになる。肩の動きが傍目にも良くわかる。SG+歯。夜は比較的良く眠れる(特に午前4時以降)。
 12月30日 日曜 いきなり背中が動く。

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2001年12月末での状態(入院2ヶ月の現状): 

12月末になって手の痺れを感じるようになった。背中の筋肉が突然復活した(突然というのは前にもあとにもこの時だけ)。肩も少し動く。首による意思表示(縦と横)が出来るようになった。顎の動きが良くなリ、かつ舌の格納ができるようになって歯磨きが少し楽になった。体重は相変らず減少中。緑のフィルターが概ねおさまる。

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2001年12月(県立キルナ病院集中治療室)のまとめ

(1)2度の転院で、それぞれで回復が10日+20日停滞(逆戻り)した感じ。もしも転院が無かったらあと1ヶ月は早く呼吸器が外れただろうと思う。
(2)キルナの病院には4人の内科医と2人の麻酔医がいて、交替制になっている他、ウーミオからも人がやって来る。担当医は1週間交替(土曜午後)。医師巡回は毎日2〜3回(それぞれ10〜20分)。
(3)ガンマ グロブリンx5日の再治療。
(4)肺炎の進行に伴って痰がより出るようになって、吸引回数が増える。上手い人と下手な人がいる。
(5)血圧と心泊は安定して来る(血圧降下剤の使い方がマトモになる)。
(6)体重は更に落ちて、50キロ前後になる。
(7)体温が徐々に下がるが(=37度台前半)、まだ平熱よりは高い。
(8)酸素要求量を押さえる為に点滴食のカロリーが最低限で、しじゅう空腹を感じる(もっとも、喉の渇きの方がもっと苦しいが)。
(9)死ぬほど苦しい思いをあと10回もすれば呼吸器が外れるだろうと思っていたら、5回ぐらいですんだ。単に苦しい思いはいくらでもあるが、ウーミオ時代の呼吸困難etc に比べると全然楽。
(10)10年前と同じく、太陽が出るまで呼吸器だろうなと漠然と思う。
(11)緑のフィルターが段々薄くなるが、二重に見える複視は相変わらず。
(12)聴力も相変わらず聞き取り難いままで殆ど変化無し。
(13)相変わらずかゆみは感じない。
(14)両腕に痺れを感じるようになるが、その際、腕が異常に発熱して暑く感じる。
(15)睡眠薬の効きがますます悪くなって、色々な睡眠薬を試す事になる。
(16)Sunderbyn の時と違って、毎日(=週末も)時間をかけて(=40分〜1時間)まともな KP(kontraktur profylax=手足を動かす体操) をやってくれる。
(17)歯科衛生師が毎日来はじめる(20分程度:歯磨きとフッ素塗布)。
(18)指の関節を軟らかくするリハビリが不十分だった為(Sunderbyn では全くなし、ウーミオとキルナでは、第1関節と第2関節だけ)、指の第3関節(手のひらの部分)が固まってしまい、1年半後も手でグーを握る事が(外から力を加えても)出来ない。特に小指は例のギブス(SG は嫌っていた)が悪化を促進。人工呼吸の最中とは云え、関節他の対処を怠ってはいけないのは勿論のこと、作業療養師の言う事をそのまま聞いてはいけない。
(19)Sunderbyn の時と違って、こっちの看護婦は近くに座ってくれるので、呼んだ時の非常に反応が早い。少なくとも Sunderbyn よりケアーが遥かに良い。
(20)Sunderbyn で作った質問表をそのまま使う。
(21)ここも看護は女ばかりである。
(22)寝返りは(こっちの要求した時に)頻繁にやってくれる。相変らず仰向けが一番楽。
(23)ウーミオ等でもそうだが、痛みの種類(モルヒネの必要でない機械的痛み)の説明が難しい。筋肉を失うにつれて、手足を重ねられなくなる(沈み込んで骨にあたって痛くなる)のが問題になる。
(24)同じく、持病の腰痛と持病の右膝関節炎については伝えるすべが無い。
(25)体を洗う為に水を洗面器に入れる音(蛇口の水の音)がし始めると嬉しくなる。
(26)シャワーは(携帯呼吸器が手に入るまで)しばらくおあずけ。再開は年末?
(27)爪は伸びっぱなし。クリスマス過ぎにやっと切る。

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2002年1月の日誌

 1月1日 祭日火曜 飲食再禁止。
 1月2日 水曜 呼吸器アシストモード12。
 1月3日 木曜 呼吸器アシストモード10(TU+CPAP)。
 1月4日 金曜 呼吸器アシストモード8。
 1月5日 土曜 呼吸器アシストモード6を1〜2分程やったあと、いきなり自発呼吸2時間50分(負荷なし、酸素3リットル)。戻したあとのデータ:自発呼吸と機械の呼吸の割合が17/14、1回呼吸したときのH2Oの圧力が12から13、1呼吸のボリュームが500ml、酸素の量が31%。
 1月7日 月曜 水を飲む事が再解禁。初めての tipledan で斜めに立つ訓練(傾斜20度、5人掛かり30〜40分)。
 1月10日 木曜 自発呼吸のバルブを付け替えて、声が出るようになる。4人掛かりでベッドの横に座る練習は30秒が限界。
 1月16日 水曜 シャワーを初めて人工呼吸器なしで浴びる。
 1月17日 木曜 点滴睡眠薬が不要になる。
 1月22日 火曜 昼間ずっと呼吸器なし。
 1月25日 金曜 人工呼吸器がはずれる(朝に外して、外したまま初めての夜を過ごし、その勢いでずっと翌日から外しっぱなし)。

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2002年1月末での状態(入院3ヶ月の現状): 

 呼吸器が外れて酸素吸入のみになる(まだ咳が出来ないので、痰吸引用の喉の穴は必要)。流動食を食べる。ストローで水が飲める。Tipledan で60度まで起きる(首とかはフラフラだけど)。手は右手親指の付け根(第3関節)が微かに動くのみ、足は膝の上下にある筋肉がぴくぴくする他、足の指を曲げる事(殆ど全部の指)と足首を伸ばす(ダレ足にする)事が出来る。KP=kontraktur profylax(柔軟体操)では腕が十分に曲がらないし腕のバランスも取れない。

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2002年1月(県立キルナ病院集中治療室)のまとめ

(1)1ヶ月かけて呼吸器を外す訓練(5日から25日まで、走っているようなもので汗だくになる)。
(2)肺のガラガラ音(肺炎)は1月になってようやく快方に向かうが、痰は相変わらず多い。痰の吸引の上手い人と下手な人を完全に覚えてしまったので、下手な人が来ると落胆してしまう。
(3)1月になって脈拍が下がるにつれ(正確には血圧が下がって、血圧降下剤が不要になるにつれ)、不整脈が起るようになる。
(4)ベッドの位置替えのお陰で、酸素飽和量(指で測る)、血圧、脈拍、呼吸の深さなどのモニターが丁度ベッドから見える位置に来る(複視で十分には読めないが)。
(5)体重は更に落ちるが、最終的に 48-49kg で安定。
(6)体温が徐々に平熱(36度台)に戻る。
(7)水が少し飲めるようになって、喉の渇きが若干(でも少しだけ)解消する。
(8)空腹は相変わらずで、喋れるようになって、ようやく点滴食の量を増やしてもらう(酸素要求量を押さえる為にカロリーが最低限だったらしい)。
(9)死ぬほど苦しい思いというのは無くなる。
(10)緑のフィルターが無くなり、二重に見える複視もようやく快方に向かって(月末には若干残っている程度)、目が概ね正常になる。
(11)聴力も徐々に回復し始めて、月末にはかなり正常に聞き取れるようになる。
(12)かゆみを徐々に感じ始める。
(13)年末に感じ始めたジンジンした痺れが腕全体と足に広がり、その度に、その部位だけが異常に発熱して暑く感じる。
(14)だんだん夜に眠れるようになって、最終的には通常の睡眠薬だけになる。
(15)リハビリ(tipledan、マッサージ)が本格化して、毎日(休日も)KP(kontraktur profylax=手足を動かす体操)40分+マッサージ40分(カタリーナ、アグネッタ、レーナ)、週2〜3回ベースで(7日から)tipledan。
(16)医師巡回毎日2〜3回(それぞれ10〜20分)+歯科衛生師20分(歯磨きとフッ素塗布)。
(17)手のギブスが悪かったのか、柔軟をしなかったのが悪かったのか、手の指の関節(特に小指第3関節)が痛みはじめる。
(18)喋れるようになって、はじめて持病などを伝える事が出来る。
(19)携帯呼吸器が手に入ったのでシャワー再開。後半は酸素吸入だけでシャワー。
(20)正月に深爪して以来、指先がひりひりする。

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5. 投薬

治療:
 ウーミオ(11月1日〜11日):血漿交換4回+(IVIg+Steroid)5日間
 キルナ(12月14日〜18日):IVIg(ガンマ グロブリン)5日間

毎日の薬:
 ウーミオ(スンドビンへの転院時:11月23日)
  *Neurontin 400mg x 3 (昼、鼻管、神経痛)
  *Propavan 25mg x 1 (夜、鼻管、睡眠薬)
  *Fluoxetin 20mg x 1 (夜、鼻管、抗鬱剤)
  *Imovane 7.5mg x 1 (夜、鼻管、睡眠薬)
  *Andapsin 2g x 1 (ミックス、胃痛薬)
  *Fragmin 5000IE x 1 (夜、注射、床擦れ防止)
  *Laxintia (排便促進剤)
  *Combivent x 4 (肺拡張剤)

 スンドビン(キルナへの転院時:12月7日)
  *Primperan 10mg x 3 (鼻管、排便促進剤?)
  *Catapressen 0.075mg x 2 (鼻管、血圧効果剤)
  *Atenolol 50mg x 2 (鼻管、血圧効果剤)
  *Fragmin 5000IE x 1 (夜、注射、床擦れ防止)
  *Kajos 20mg x 2 (ミックス、Kalium)
  *Lactulos 20-30ml x 1-2 (ミックス、排便促進剤)
  *Laxoberal (必要な時のみ、排便促進剤?)
  *Ekvacillin 2mg x 3 (12月4日より、肺炎の為)
  *Ventoline 2.5mg x 4 (肺拡張剤)
  *Acetylcystein 100mg x 4 (必要な時のみ、咳を出す薬)

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